2012年2月18日土曜日

ばたばたばたと。

最近、平日も週末も関係なくなんだかばたばたしている。

入社して初めて事務系の仕事がメインの部署に移り、システムと格闘する日々…
そして週末は結婚式の準備をしたり、大切な人に久々に会ったりであっという間に過ぎて行く…

日本にいたって、海外にいたって、「いま、ここ」は一回きりなわけだから、
もっと日々を味わって、かみしめて過ごしたいんだけどなぁ…

明日から、少しずつ体制をたてなおしていけるといいな。


なんだかTシャツ屋さんみたい。
私たちのシェアハウス。これもひとつの「いま、ここ」

2012年1月26日木曜日

最終講義

今日は東京大学の北岡伸一先生の最終講義を聴講しに、東大に行ってきました。


テーマは、『日本における政権交代と外交転換』。


先生は、博士論文を書かれていた頃から一貫して「合理的な対外政策を生み出すための国内基盤とはどういったものか」(つまりは、内政と外交の結びつき)ということに関心を持たれながら、幅広く研究活動を展開されてきました。


何十年にも渡る研究活動のエッセンスを盛り込んだ100分の授業。
10年前に初めてお会いしたときと変わらず、スパイスとユーモアを忘れない語り口。
200人ほどの聴衆はみなさん先生の講義に魅了されっぱなしだったことでしょう。


10年ぐらい前に、国際学生シンポジウムで先生と初めて対面しました。
「日本の外交政策のあるべき姿」について熱く議論する我々学生に対して、先生は、右でも左でもなく、ファクトに基づいて現在の日本を取り巻く環境について持論を展開されました。
そのとき、自分の勉強不足を痛感し、「あるべき姿」ではなく、まずは我々のたどってきた道を学ばなければその先を語ることはできないと思い知らされました。


その後、先生を突撃訪問し、先生のゼミに入れてほしいと頼んだところ、あっさりOKしていただき、その後半年の間、毎週先生のゼミを楽しみにしながら参考文献を読みふける日々でした。


先生のもとでもっと勉強したいと考え、先生の所属される大学院に進学しましたが、残念ながらちょうどそのタイミングで先生は国連大使として米国に行かれてしまい、直接の指導は受けられませんでした…それでも、大学院を卒業してから幸運にも定期的にお会いする機会があり、今日に至っています。


私のように半年しかゼミを受講していなかった生徒のことも先生は気にかけてくださり、南スーダンにいる間も何度かエールをいただきました。


先生にお会いしなければ、日本と世界を繋ぐ仕事に就きたいと真剣に考えることもなかったと思いますので、今ここにいられるのは先生のおかげです。


こうやって先生に影響を受けた生徒が日本中に何百人単位でいるというのは本当にすごいことだなぁと思います。


今後先生は他の大学院に移られ、研究活動に主な軸足を置いて活動される予定のようです。


先生の恩師の方が、「『日本陸軍と大陸政策――1906-1918年』を超える著書をもう一冊書かれることを期待しております。」と本日のレセプションで先生におっしゃっていました。
恩師の方にそう言われたら先生もきっとだまっていらっしゃらないと思いますので、今から今後のご活躍が楽しみです。


先生、本当にお疲れ様でした。


◎3日前の東京の写真

2012年1月11日水曜日

亡き祖母に捧げるメッセージ


年末に祖母が突然亡くなりました。

私にとっては、こんなに近い人が亡くなったことは生まれて初めての経験であり(そのこと自体がとても幸せなことなのですが)、また、つい2週間前に元気な祖母と電話で話したばかりでまさかこんなことが起こるとは思っていなかったため、亡くなって棺桶の中に入れられた祖母を見ても、そして、骨になった祖母を見ても実感がわかず、今も太宰府の祖母の家に行けば祖母が出迎えてくれるような気がしてなりません。

30年もの間、無償の愛をめいっぱい注いでもらった私はなんという幸せ者なのでしょう。
その愛を「当然」といった感じで受け取っていた自分をとても恥ずかしく思うと同時に、そうさせてくれた祖母に感謝の気持ちでいっぱいです。

最後に電話をくれたときには、「他の人には言えない話しだから、ここだけの話よ。おじいちゃんがね、『えりは綺麗になったなぁ』って言うのよ。だからね、『あら、えりは昔から綺麗よ』って言ったのよ。ねーおかしいでしょ」とけらけら笑いながら祖母は話してくれ、そして、「じゃあね、かずちゃん(※私の旦那)にもよろしくね」と言ってさっさと電話を切ったのでした。
それがまさか祖母との最後の会話になるとは考えもしなかったため、祖母らしい電話だなぁと思いながらその時はさほど気にも留めていませんでした。

最後に会ったときには、私の結婚のことをとても喜んでくれ、「4月の結婚式のときに東京に行くのを楽しみにしているから」と何度も言ってくれました。そして、「孫娘の結婚式に出席するために来年の春に東京に行くのよ」と祖母が近所中の人たちに嬉しそうに話していたということを、祖母のお葬式に来てくださった近所の方々の話しで知りました。

30歳直前になっても、自分の好きな仕事に邁進し、アフリカの南スーダンという(祖母にとっては)どこにあるかもわからないような国で働く孫に嫌な顔ひとつせずに、「おばあちゃんが若いころは、女は教育を受けなくてもいいと言われ、大学に行かせてもらえなかったけれど、えりの時代は違うものね。えりちゃんは別に結婚なんてせずに仕事を続けてもいいのよ」といつも背中を押してくれていたのも祖母でした。

カタカナ混じりのメールを時々送ってくれた祖母。最後に会ったあと、送ってくれたメール。
題名:二人して、良く来ましたね。
何かと、お忙しい最中でしょうに、有難うね。大変嬉しゅうございました。皆元気でしたし、お料理も、美味しく、●●夫婦(※父親)の、心遣いが、大変嬉しく、胸いっぱいの、ものが、ございました。リングが、一際幸せの、輝きを、放って、いましたね えり、幸せそうでしたね。お祖母ちゃんも、嬉しく、幸せです。●●さん(※旦那)に宜しくね。空の旅は快適ね ●●家(※旦那の家族)の、ご両親ご一家様に、宜しくお伝えください。では、またね。オダイジニ。Bye-Bye

もう祖母からメールを受け取ることはないという事実をなかなか受け止められない自分がいます。

祖母のメガネ、祖母の携帯、祖母のお気に入りの帽子…どれも今後使われることがないという事実。祖母がいなくなることによって、これららのものの持ち主がいなくなり、そのものたちが存在する意味を失ってしまうということ。これらのこと、ひとつひとつがとても悲しく、そういう些細なことに気づく度に涙してしまうどうしようもない私がいました。

死というものを目の当たりにしても、「死」の意味は未だわからずにいますが、祖母のためにかけつけてくれた100名近い友人や近所の人たち、そして、たくさんの家族に囲まれながら、「おばあちゃんね、本当にこんなつもりはなかったの。おじいちゃんより1日でもいいから長く生きるつもりだったのよ。自分でもびっくりしたわ」と笑いながら話す祖母の姿が浮かんできました。とても悲しいけれど、祖母が温かい人たちに囲まれながらこの世とお別れすることができたことについてはとてもよかったと感じました。

90歳近い祖父と1歳のおいっこ。そして、祖母の兄弟や子供たち、そして孫たち。みんなで祖母の骨を拾いました。

祖母がこの世からいなくなっても、祖母の命は繋がっていくのだということ。そして、祖母から受け取った大きな大きな愛情を次に繋げていく役割が残された家族にはあるということ。そのことが私たちを安心させ、そして私たちの気持ちを強くしてくれる気がしています。

感謝の気持ちをめいっぱい込めて…


おばあちゃんへ
えりより

2011年11月20日日曜日

ロシナンテス@東北

閖上(宮城)にて



2週間ほど前に東北(名取)で活動するロシナンテスにコンパスポイントのみんなでお世話になりました。
震災後の復興支援を現地密着型かつ型にはまらず自由な発想で行っているロシナンテス。


「まずは現地に行って見ればいい。自分に何ができるかは、それから考えればええ。」代表の川原さんの言葉。


この言葉がきっかけで東北で活動するロシナンテスのドアをたたく人たちも多いのではないでしょうか。


日本中から老若男女問わずさまざま人たちを引き寄せ、現地のニーズに合った活動を皆で力をあわせて行っていくためのプラットフォームを提供し続けているロシナンテス。


このスタイルはスーダンでも東北でもかわらないなぁ。


きっと、東北の被災地の方々の人生だけでなく、そこに関わった多くの人たちの人生を変え続けている団体。


今後も様々な形で東北・ロシナンテスと繋がって行ければと思った二日間でした。




現地で感じたことをうまく言葉に表すことは難しく…そんな中で上野千鶴子さんの「原爆のあとで、ホロコーストのあとで、大震災と津波のあとで、原発の恐怖のなかで、コトバは無力か?と問いかけられたら…無力だとおもう。でも無力でないとも思う。乾いた魂に水が吸い込まれるようなコトバが書けたら…書き手のすべてにとってのねがいをこめて、被災地に送りたい。」という言葉を思い出したり。




そして、言葉にならない思いをシンプルに、でも、力強く歌った加藤登紀子さんの歌『今どこにいますか』とMr.Childrenの歌『かぞえうた』に励まされた私自身がいました。




忘れずに、感じつづけること・考え続けること・そして行動すること。




そうありたい、そうあろうと思います。

2011年11月8日火曜日

Then & there, and now & here

南スーダンのジュバの空と虹



駐在を終えて南スーダンから戻ってきて1か月が経ちました。


戻ってきた当初は、東京のスピードについていくのがなかなか難しく、電車をあわてて反対方向に乗ってしまったり、自動ドアにぶつかったり、交差点の人の多さに驚いたり(思わず写真をとりたくなりました)…


一方で、南スーダンでは絶対無理だった、夜の一人歩きや自由な買い物、そして、料理や湯船に浸かることを堪能していました。


駐在の総括はなかなか難しいのですが、思いついたことをメモのような形でもいいので残しておきたいと思い、ブログを書いています。


まず、南スーダンに2年4か月滞在し、また、その間にスーダン・ケニア・エチオピア・ウガンダを訪問することができたため、アフリカへの心理的距離がぐんと近づいたなぁと感じています。
必要なら、または、望めば、明日にでも飛行機でふらっと行くことができる…それぐらい身近な場所になりました。
メディアを通して知るアフリカのイメージはどうしてもネガティブで、私自身行くまでは、「大丈夫かな?」と思っていたところもあったのですが、ちゃんとした情報ソースからタイムリーに治安情報を得ていれば、特に危ない目にあうこともないということを経験から知りました。
スーダンの首都ハルツームなんて本当に平和で、私のアフリカのイメージを根本から変えてくれました。


また、仕事で自分自身が使う言葉にとても敏感になったと思います。
新入社員のころにインドを担当して出張にでかけていたときには、自分が英語で話すときに使う単語にまで気を使う余裕はありませんでしたが、他のドナーの態度を見ることで、どの単語を使うかによってその言葉を発している人の持つ思想が読み取れるということを痛感したため、気をつけるようになりました。
Help/ Aidという言葉は使わず、Cooperateと言う。
Problemsを聞くことはせず、Challengesを聞く。 などなど。
とっても単純なことなのですが、現場で様々なドナーの会話を聞いていると、結構これをできてない人は多いのです。
いきなり外からやってきた豊かな国の人たちに「あなたを助けにきました」「あなたの抱える問題はなんですか?」と言われたらどのような気持ちになるだろう…そういった想像力をずっと忘れずにいたいです。


長年の夢でもあった平和構築の現場での仕事にどっぷり浸かり、国づくり支援の醍醐味と難しさも実感しました。
醍醐味は、やはり、国際社会の支援なしには総選挙、住民投票、そして独立といったステップをたどることはほぼ無理だったであろう南スーダンを目の当たりにし、国際社会が介入することによって実現する平和があることを教科書だけではなく現実の世界のこととして知ったこと。
一方、数十年も内戦をしていた国・人達と、国の制度やシステムをつくり動かしていくという作業は数年単位でできることではなく、何十年かけてトライ&エラーを繰り返しながらつくりあげていくものであるにも関わらず、ドナーの都合でつぎはぎだらけのいびつな制度が急ごしらえで用意され、文字通り「形」だけが整えられていったこと―これには一抹の寂しさ・むなしささえ感じました。


更には、今の組織に属しながらも、現地NGO、国際NGO、国連、大使館等の仕事内容を垣間見ることができたのも大きな収穫でした。
例えば、UNDPやUNICEFなんかはうちの組織と近く、先方政府の能力強化にフォーカスした事業をいくつもやっていますが、WFPやUNHCRは緊急支援的要素が強いため、やはりうちの組織とはかなり色が異なることなど、勉強になりました。
UNHCRは「今そこにある危機」への対応が求められる、そして、何万人もの命を短期間に救って明日に繋げて行くことが求められる仕事ですが、そういうものに対する憧れの気持ちは未だあるものの、一方で、自分自身は中長期的に現地の人たちと向き合っていきたいタイプですので、きっとそういう意味では緊急支援系の仕事は向かないのだろうなぁと気づいたり。


あとは、プロジェクト型支援の難しさについて。
平和構築の現場では、政府の制度や組織さえも流動的で、政策もあるようでなかったりします。そのような中で、例えば3年のプロジェクトをつくって、ある程度の仮説をたて、達成目標を設定していく―絵にかいたらとても美しいかもしれませんが、現実の世界ではそんなにうまくいくはずもなく…
まさに「事件は現場で起こっている」のですから、また、現地の状況は日々変化していくのですから、我々の協力内容もそれに合わせて流動的であるべきです。
でも、どのドナーも成果を求めすぎるあまり、硬直的な時間設定とフレームで現実を無理やり切り取ろうとする…その弊害をいくつも見てきました。


最後は、やはり、現地で起こっていることの責任をとることができるのは現地の人なので、外部者は外部者としての役割に徹することが大切だと強く感じました。希望を持ち続けながら、現地の人たちをエンパワーしていく―主役はあくまでも現地の人たち。
そういった意味では、平和構築の現場では「平和の配当」を人々に実感してもらうためにスピーディな支援が求められていますが、一方で、中長期的な国づくりの視野にたった、人づくりに貢献することも同じぐらい大切なことだと思いました。


他にも、ずっとプレハブ・コンテナに住んでいたためあまり物を必要としなくなった等、自分の中での小さな変化や気づきはいくらでもありますが、それはまたの機会に。


日本に舞台は移しましたが、今後も私のアンテナにひっかかったことについて、ブログで記録をつけていければと思っています。


これからもよろしくお願いいたします。

2011年9月30日金曜日

建国62周年記念




今週は中国大使館のレセプションに参加しました。

数多くの政府関係者、ドナー、PKOに参加する中国人、そして中国の民間企業の人たち(石油関係、建設関係、通信関係等)が参加する華やかなパーティー。

大統領のかわりにパーティーに出席した南スーダン情報省の大臣は、お祝いのスピーチの中で、「中国は建国してから62年。南スーダンは建国してから2カ月と2週間。中国のことをおじいちゃんと呼んでもいいですか?」と話し、会場の笑いを誘っていました。

中国大使のスピーチの中では、南北和平合意後、中国がいかに南スーダンに貢献してきたか(1,000本以上の井戸の建設、PKOの医療・施設部隊の派遣等)が語られ、中国と南スーダンの良好な関係がアピールされました。

パーティーに参加している中国人の数をみると、南スーダンにどれだけ食い込んでいるかが分かります。ほとんどの方が英語を話さないのですが、それでもビジネスが成り立つということなのでしょう。

私が話をした建設関係の会社の現地代表の方は、10以上の中国の建設会社が現地では工事を受注中で、未だ受注していないけれど現地でのビジネスに関心を示している中国の建設会社は数十とあると話していました。そういえばスーダンの空港で中国の人に「何か建設関係の仕事があれば教えてください」と突然声をかけられたことがあったなぁ。やっぱりバイタリティが違います。

パーティーの後半には美味しい中華料理がふるまわれ、素敵な時間となりました。

2011年9月29日木曜日

貧困の本質は可能性の貧しさを受け入れること

アメリカのスラム街でアトリエを設置し、陶芸を教えることを通して、貧しい人々自身が持つ可能性に気付かせ、彼らが豊かな人生を送る手助けを始めたビル・ストリックランド。
その後、彼は職業訓練所やコンサートホールの建設・運営を通じて、多くの貧しい人々をエンパワーし、彼らを成功へと導いていく…


そのようなビルのストーリーを綴った『あなたには夢がある』。


貧しい人々について書かれていることは、アメリカのスラム街だけではなく南スーダンのような途上国文脈にも当てはまるため、我々開発援助に携わる者に対するインプリケーションが多々ありました。


どのような人にも可能性がある。
ただし、貧しい人達はそのような可能性があることを自らは信じられないような環境に置かれている。
そのため、その可能性に気づくきっかけを得られるような環境を用意する。
その体験を通じて、貧しい人達は初めて「貧しい人」ではなくなり、自らの可能性を信じ、行動していけるようになる…


アトリエ、職業訓練所等での活動をとおして、これらのサイクルを見事につくり上げて行ったビル。


このような「きっかけ」を人に提供するような仕事をこれまでどれだけやってこれたか…ビルの本を読みつつ、自問自答を繰り返す私がいました。


素敵な言葉がたくさん詰まった宝箱のような本。以下に少しだけ紹介します。






「私たちはだれもが、夢をかなえる力を秘めている。その力が発揮できない最大の要因は、その夢は非現実的だ、手が届かない、と自分で思い込むこと、あるいは人から思い込まされることだ」




「芸術は架け橋です。より大きな世界、さらに幅広い経験ができる世界への架け橋なのです。路上で生活していた貧しい少年たちが、よい絵を見たからといって必ず芸術を愛するようになるとは思いませんが、人は芸術に接することで、変われると思います。(中略)うちの生徒たちは、『自分にはできない』と決めつけるのをやめます。そして、生きがいのある生き方とはどんなものなのか、おぼろげにではありますが、わかりはじめるのです」




「実際、自分自身を救うまでは、他人は救えない。自分を知り、自分がどんな生き方をしたいのかわかるまでは、他人を救うことなどできないのだ。」




「私は、自分の経験から、また成功した生徒たちや尊敬するたくさんの成功者たちを見て、本物の成功を収めるもっとも確実な道は、心や精神にとって大事なものを知性と責任をもって追求することだと確信している。」




「砂時計の砂は、いつも同じように流れる。他人の成功の定義に従って、貴重な時間を無駄にするのはやめてほしい。今の望みにしたがって生きてほしい。あなたを元気にするもの、悩ませるもの、生きているともっとも実感できるものを見つけよう。そしてそうしたものがあなたの将来を形づくると信じよう。そうすればあなたは、心から望んだことを、きっとかなえることができる。」




「失敗への恐怖は夢の妨げとなる。しかし、失敗を恐れていてはとびきりの人生は送れない。その恐怖に打ち勝つには、自分の情熱を信じることだ。情熱は、失敗を防ぐことはできないが、情熱があれば、何度失敗しても夢が消えることはない。人は失敗することで学ぶ。失敗することで、人はビジョンを立て直し、やり方を考え直し、夢の実現に必要なスキルや能力の向上を図る。」




「貧困とは、無秩序な思考だ。貧困とは、人生のもっとも深いところにある可能性とのつながりを失うことだ。マンチェスター・ビッドウェイルでは、生徒がそうしたつながりをふたたび取り戻す手助けをしようとしている。壊れた人生を修復するために、豊かで意味のあることに夢中にさせ、彼らのほんとうの潜在能力に気づかせようとしているのだ。」




「どのセンターにも、私たちのスクールの次のような基本理念を行きわたらせる。『どんな環境に生まれても、人はだれもがすばらしい力を秘めて生まれてくる。生徒を健全な環境に置き、心の栄養となるような刺激的、創造的体験をさせることで、生徒はその秘めた力を開花させる』」




「世の中には、『ほしいもの』がわかっている人はたくさんいる。でもそれをストーリーとは言わない。あなたが『なりたいもの』がわかっていることを人に示せるものがストーリーなのだ。あなたが自信を持って真摯に、そんなストーリーを語れるなら、いずれはそれを聞くのにふさわしい相手をつかまえ、とびきりの時間と本物の成功を手に入れることができるはずだ。」