2010年9月30日木曜日

北部スーダン観光事情

友達が2人、ハルツームまで遊びにきてくれました。

私も同じ時期に休暇をいただき、ハルツーム入り。

「ハルツームに来てもどこも行くところがないのでは…?!」とジュバ仲間は心配してくれましたが、なかなか濃い時間を過ごした1週間。


ちょっとマニアックな旅、みなさんもいかがですか?



1日目@ハルツーム

スーフィーダンスの見学(前列:踊る男性陣、後列:見学する女性陣)

NGOロシナンテス事務所訪問(星空の下でござを敷いて夕食)

2日目@メロエ

ナイル川クルーズ

ピラミッド

3日目@ハルツーム

青ナイルと白ナイルの合流地点(左側:白ナイル、右側:赤いけれど青ナイル)

ラクダランチとラクダ市場(羊みたいで美味)

オムドゥルマン市場(中国製品がたくさん)

4日目~5日目@世界遺産(他に訪問者はおらず貸切状態。物売りもガードマンもなし。)

Nuri(紀元前7世紀ごろ。スーダンの歴史上もっともパワフルだった支配者Taharqaのお墓があるところ)

Kurru(紀元前9世紀ごろ地下に建設されたお墓。死後の世界が壁に描かれている)

ジュベル・バルカル(聖なる山の意味。上まで登れて頂上からの景色は絶景)

世界遺産の真正面にあるイタリア系ホテルでちょっとラブリーな時間(私は暑さでばてて楽しむ余裕もありませんでしたが…)

6日目@ハルツーム

プールサイドで休息

7日目@ハルツーム

博物館(スーダンの歴史が簡単に分かる!展示物はあまりないけれど…)

ナイル川で夕日鑑賞(橋の上から見た風景)

2010年9月22日水曜日

国際会議

あるイニシアチブがはじまって、それが形になっていく過程を半年以上かけて見てきた。

そして、先週、その集大成である国際会議に上司と一緒に参加させてもらった。

今後はそのイニシアチブが実際どのように現場におりていくのかを半年以上かけてモニタリングすることになる。


このイニシアチブには、過去の他の紛争国での教訓と南部スーダン独自の文脈との両方が反映されている。


来年の7月(包括的和平合意が有効な期間の期限)に向けて佳境を迎える南部スーダンの国づくり


我々にできることは何か?―――アジアと異なり日本のプレゼンスが高くないアフリカの地で、この問いがずっと頭から離れない。


◎国際会議があったブラッセル(ベルギー)の町並み

2010年9月16日木曜日

予感

スーダンに赴任するときに、大事な家族に「本当にそんなところにまで行ってしなければならないことなのか。日本でもできることなんじゃないか」と言われ、その時にはその問いに完全にロジカルに答えられたわけではなかった。


結果的には、紛争後の国づくりがまさに目の前で行われている現場で、「現地の人たちの真のエンパワーメントにつながることは何か」ということをとことん考え、それを行動に移す機会を得られていることに感謝している。


また、たまたま同じ時期にスーダンに赴任して一緒に働くことになった上司や同僚のヴィジョンとパッションに触発されることも多い。


そして、本当にいろんな出会いがある。南部スーダンの人たち、援助関係者、ビジネスマン…Good willにも出会うしBad willにも出会う。


人々の強いコミットメントを感じて希望のひかりが見える日もあれば、大量生産大量消費の援助を目の当たりにしてげっそりする日もある。



これらすべてを含めて、「いま、ここ」にいるということ。



何かができるようになったわけではないし、何かを得たわけでもない。

でも、我々の持つ可能性と現地の人々の持つ可能性をつなげる仕事をとても面白いと思う。

「仕事」というより「ライフワーク」という言葉がより合っているかな。


きっと私は何らかの形でこの「つなげる」ということに関わり続けていくのだろうな、そういう予感はある。

でもそれは確信というものからは程遠い。



大事な友人と再会した際に、そういうことを考えた。



きっと私はこれからも様々な予感に導かれながら、世界のどこかで何かをしているのだと思う。

そして、もしかしたらこれからも同じ質問を家族から投げかけられ続けるのかもしれない。



久々に会った友人は、相変わらずキラキラがこぼれ落ちそうな感じだった。

一時間にも満たない時間だったけど、彼女のここでのがんばりを聞いて、私の背筋もピンと伸びた。


それぞれの人が「いま、ここ」を抱えながらそれぞれの小宇宙を生きている。


次にいつ会えるかわからない彼女と別れ際にハグしたとき、なんだか泣きそうになった。

会えてよかった。



◎再会の地

2010年9月11日土曜日

『Making Do』

Jua Kali

スワヒリ語で「熱い太陽」という意味。

もともとは灼熱の太陽の下で陶器をつくる人を指す言葉だったようですが、今ではインフォーマル・セクター(※)で働く職人全般のことを指す言葉になったようです。


(※)インフォーマルセクターとは、正式な企業登録を行っておらず、政府の保護も規制も受けない零細企業や個人が活動する経済部門のこと。ケニアでは労働人口の80%はこのインフォーマルセクターに属し、新規雇用の90%はインフォーマルセクターから創出されるという数字があります。


最近、世界のごく一部の消費者(先進国の裕福な人たち)のニーズを満たすためのデザインだけではなく、世界中に存在する貧しい人たちのニーズを満たすためのデザインはどうあるべきか、という議論が日本を含む世界各地で盛り上がりを見せていますが、この『Making Do』の著者の問題関心も、先進国の技術やデザインが途上国の貧困削減に貢献するためにはどうしたらいいのかというところから始まっています。


我々は‘通常’途上国の経済成長のためには、外国からの援助や直接投資(そして直接投資を呼び込むための経済特区)が必要だという議論をしがちですが、この本はそのような議論からは一線を置きます(そもそも経済特区については、労働人口の90%の人たちへの技術移転が産まれず、またその結果、社会の不平等が助長されるということを著者は指摘しています)。


著者は、ケニアの労働人口の大半を占めるこのJua Kaliに光を当てて、そこで働くJua Kaliの経済活動(商品のデザイン、生産、販売等)を包括的にレビューし、そして、ネットワークや創造性等の彼らの持つ資源と、金融機関へのアクセスがないことや専門家からのアドバイスがないこと等の彼らが直面している障壁の両方を明らかにし、その障壁を取り除くためには外部からどのようなインプットが必要かということについて提言を行っています。


既存のインフォーマルセクターに着目して、そのセクターがどのように機能しているかを綿密に調べることで、必要なインプットを考える―当然のプロセスのように聞こえますが、この当然のことを外部からの介入を行う前に行った人/機関はどれだけいるか―彼の著書が注目されていること自体、これまでこのような調査が十分になされてこなかったということを物語っています。


現地の実情やニーズを適切に捉えないまま外からの介入(援助含む)を行うことは、現地のある一定の合理性の下に成り立っている既存のシステムに歪みを与えることになるため、十分な注意が必要です。一方、現地のニーズを適切に踏まえたインプットを行うことができれば、小さな投入でも大きな効果を生む可能性があります。


著者は、現地のJua Kaliを支援するプラットフォームをWeb上で構築し、Jua Kaliが考案した技術をWebに掲載して、専門家のアドバイスを受けたり、初期投資に必要なお金を集めたりすることが可能だと書いていますが、これはBoPラボ( http://boplabjp.ning.com/ )で日本人のメンバーの方々が今まさに行おうとしていることだと言えます。


この著書の題名『Making Do』のいい訳が思いつかないのですが、もともとは「間に合わせる、やりくりする、対処する」といった言葉。廃材から様々な商品を作り上げていくJua Kaliの創造性をこの言葉で表現したのでしょうか。


この著書は、本として買うと3,000円近くしますが、ネット上で無料で読むことが可能です(ただし、TwitterFacebookでこの著書のことを宣伝することが条件ですが)。ただの「メモ」がわりではなく、Twitterはこのように活用することができるんですね(発見!)

2010年9月9日木曜日

お気に入りのコラム

松本仁一さん(元朝日新聞編集委員)がアフリカについて書かれるコラムが好きで、ネットでもよくチェックしています。


その松本さんの著書『アフリカで寝る』の中から、印象に残っていて、今でもよく思い出すコラムを3つばかり紹介。



●キリマンジャロ山はタンザニアにある。(中略)山頂の北側は、十五キロほどですぐケニアだ。境界になるような川や谷はなく、なだらかな草原がケニアのアンボセリ動物保護区に向かって広がっている。国境線は、その草原の広がりのどこかを走っているらしい。

暖炉にまきをくべながら、ラブレスさん(※キリマンジャロ・ロッジの支配人)がいった。「その国境だが、なぜここで急に曲がっているのか、知っているかね」インド洋から北西、まっすぐビクトリア湖に向かって延びてきた国境線は、キリマンジャロの手前で急に北にカーブし、五十キロほど回り込んでから北西に向きを変え、再びビクトリア湖に向かっている。一八八四年のベルリン会議で決まった国境だ。

ベルリン会議は、欧州列強によるアフリカ分割の会議だった。当時、英領ケニアには万年雪をかぶった山が三つあった。ケニア山(五、一九九メートル)、エルゴン山(四、三二一メートル)、そしてキリマンジャロである。隣のタンザニアを領していたドイツのウィルヘルム二世が、長い会議の期間中に誕生日を迎えた。誕生祝いに何がいいかを尋ねた英国のビクトリア女王に「雪のある山を一つ分けてもらえないか」と持ちかけた。女王は気軽に承諾し、それで国境が不自然に曲がることになったのだという。

それから百年余、国境は曲がったままだ。

「ここに昔から住んでいるアフリカ人は、あの山が人間に属するなんて思ってもいない。それを、一度もアフリカに来たことのない二人が、机の上で地図に線を引いて、勝手に分けてしまったというわけだ」

「キリマンジャロ タンザニア」より



●ちょっと頭を働かせると、逆に援助は生きてくる。

イタリア政府が西アフリカのガーナに、トラクター百台、二百三十万ドル分の援助を決めた。イタリアはそれをガーナ政府には渡さず、国連食糧農業機関(FAO)に渡して、配分をまかせた。

FAOの現地事務所には知恵者がいた。「ただのトラクター」ではだれも手入れせず、一年足らずで壊れてしまう実例を彼は見ていた。彼はイタリア政府に「トラクターを七十台に減らしてほしい」と申し入れる。残りの三十台分の予算で修理工場を三カ所つくってほしい。ガーナ人の優秀な若者を送るから、半年間、修理技術を教育してほしい―。

その上で彼は、トラクターがほしいと希望した七十の村に対し、市価の三分の一の値段でトラクターを「売った」。払いは十年ローン、作物の物納である。

それから「よく分かるトラクター」という巡回講座を開いた。使ったあとは必ず洗え。こまめに油をさせ。ネジはまず左に回し、カチッと音がしてから右に回せ。おかしいところがあったらすぐに修理工場に連絡しろ…。字が読めない農民にも理解できるごく初歩的なマニュアルを、徹底して教育したのである。

壊れてしまっても残りのローンは払わなければならない。トラクターを「買った」農民たちは必死になった。自分たちのトラクターなのである。毎日きれいに水洗いする。ちょっとおかしいと思うと工場に自転車を飛ばし、「クラッチのあたりから変な音がする」「ギアが引っかかる」と報告する。物納されたローンの作物は市場に出され、その代金は修理工場の技術者の給料となった。

同じころ、隣の地域に日本などが百台の「ただのトラクター」を援助した。一年足らずで八十台が動かなくなった。しかしイタリア援助のトラクターは、八年たってもぴかぴかで、すべて動いた。

「コメと農村 ケニア」より



●夜になって、困ったことが起きた。こちらが寝袋を広げて寝る準備を始めたのに、第三夫人は小屋から出て行かないのだ。「もう寝るので出ていってくれ」と通訳を頼むと、マサイ青年のエイモス君はまじめな顔で拒否した。(中略)

マサイは一夫多妻制だが、エイモス君によると、妻の方も、夫が宿泊を認めた客とはいっしょに寝るきまりがあるのだという。だいたいは夫と同じ年齢組の男性である場合が多いが、そういうとき、客は牛ふんの小屋の入口に槍を突き立てておく。槍がたっている間は、夫といえども妻の小屋に入れない。

マサイの生活では、男の死亡率が高い。遊牧中に野獣に襲われたり、牛戦争があったりするためだ。一夫多妻制は、夫を失った女性たちを救済するための社会保障の一種なのである。これはアラブの遊牧社会でも同じだ。

妻がほかの男と寝るのを認める制度は、その一夫多妻システムの不都合な部分を、マサイ流に手直ししたものなのだろう。広いサバンナに散在するマサイの生活では、ともすれば近親婚になりがちだ。その弊害を防ぐため、ほかの地域の男の血を入れなければならない。それを、一定のルールをもうけて保証したのだと思う。

いずれも、気候や風土、生活のリズムに合わせ、長い時間をかけて形成されてきた習慣だ。それを、別の社会の基準だけで野蛮だとか未開だとか決めつけることはできまい。

「牛ふんの家 ケニア」より



◎牛ふんでできたマサイの家

2010年9月5日日曜日

Orphanage House

「不利な立場に置かれた子供たちの自立支援」について研究されているYさんと一緒に、ジュバにある孤児院を訪問する機会がありました。


40人の定員の孤児院に69人の子供たちが住み、部屋は男の子の寝室と女の子の寝室のみ。

病院のようにたくさんのベッドが部屋の中に並んでいる様子が印象的でした。


南部スーダン政府の政策では、孤児たちは学校に通う年齢になる前に里親を見つけて孤児院から卒業するということになっているようなのですが、長く続いた内戦のせいで、孤児院から卒業する機会を逃し、そのまま大人になってしまった20代半ばの若者もいるとのこと。


南部スーダンを含むアフリカの国々では、そもそも「家族」の概念が広いため、親が亡くなったとしてもその親戚が面倒をみるというシステムが自然にできあがっています。ここら辺は日本よりよっぽど懐が深い…

なので、このような環境の中で「孤児」になるというのは、本当に例外的なケース。


両親を持つ子供たちでさえなかなか学校に行く機会に恵まれない南部スーダン。ましてや孤児をや…


孤児院を訪問した際にアメリカ人の男性2人に会ったのですが、彼らは週末に孤児院を訪問し一緒に絵を描いたりして遊んでいるとのこと。また、大使館や財団にかけあって、孤児院の水回りや寮の改築のためのファンドを集めているのだとか。


孤児院の女の子たちは年齢の上下に関係なく、みんなの洗濯をしたり、食事の片づけをしたりしていました。彼女たちは里親に引き取られたり、または、14,15歳になるとお嫁に行ったりするそうです。

一方、男の子は結婚する際に持参金を払う必要がありますので、なかなか引き取り手(里親)もいないのだとか。


日本国内と海外の数々の孤児院を訪問されてきたYさん曰く、どこにいっても孤児院の状況とういものは似たり寄ったりなのだそうです。

人数オーバー

面倒見る人の不足

資金不足

施設の老朽化

善意のボランティアの存在(お絵かき教室等)…


南部スーダンも例外ではないということですね。



◎お絵かき教室の様子

2010年9月3日金曜日

DDR

2005年に南北スーダンの間で包括的和平合意が締結されたことを受け、南スーダンと北スーダンの軍人9万人ずつに対して、DDR(Disarmament(武装解除), Demobilization(動員解除) and Reintegration(社会復帰): DDR)のプログラムが開始されています。


最初のDDRプログラムの対象は、Special Needs Groups(特別なニーズを持つ人達)の35,000人です。ここには、女性兵士、障害を持つ兵士、年配の兵士等が含まれます。


このDDRの南部スーダン事務所が正式にオープンしたということで、そのセレモニーに今週参加してきました。


南部スーダンの副大統領は、オフィスの完成を祝福しつつも、35,000人を対象としたDDRの第一フェーズでは、未だに6,000人の軍人の動員解除しかできていないことを批判し、DDRの国家計画を見直して早急にどのような対策をたてることが可能かについて検討する必要があると発言しました。


来年の南部独立の是非を問う住民投票の後には、第二フェーズのDDRが開始される予定ですが、第一フェーズが遅延すると、第二フェーズまでたどり着けない可能性があります。

また、DDRは軍人を社会復帰させることによって、戦争の終わりを社会に印象づけるという効果だけでなく、南部スーダン政府の予算の25%が軍事費(軍人への給与含む)に使われている中で、DDRを行うことによって軍事費を他の予算に振り分けられるようになるという財政的な効果も見込めるため、早急な対応が求められています。


軍人のReintegration(社会復帰)の際には、職業訓練や教育の機会が与えられます。職業訓練の中には、伝統的な職業訓練(木工、金属加工、自動車整備等)の選択肢もあれば、起業支援や農業の選択肢もあります。

うちの組織も昨年、職業訓練の機会の提供を通じて、約60名の元兵士のReintegrationの支援を行いました。

南部スーダンではそもそも職業訓練を実施できるような組織・団体・機関がかなり限られている関係で、地方でのReintegrationはなかなか難しいとも聞いています。


このセレモニーでスピーチを行った国連からの代表者によると、「紛争を終えた国の約半数が5年以内に紛争に逆戻りするという統計がある。これを防ぐためにはDDRを着実に進めることが重要」ということです。


内戦は終結しましたが、「平和」への歩みはまだまだ始まったばかりです。



◎セレモニーの様子(南部スーダンのDDR委員会の委員長)