2010年9月9日木曜日

お気に入りのコラム

松本仁一さん(元朝日新聞編集委員)がアフリカについて書かれるコラムが好きで、ネットでもよくチェックしています。


その松本さんの著書『アフリカで寝る』の中から、印象に残っていて、今でもよく思い出すコラムを3つばかり紹介。



●キリマンジャロ山はタンザニアにある。(中略)山頂の北側は、十五キロほどですぐケニアだ。境界になるような川や谷はなく、なだらかな草原がケニアのアンボセリ動物保護区に向かって広がっている。国境線は、その草原の広がりのどこかを走っているらしい。

暖炉にまきをくべながら、ラブレスさん(※キリマンジャロ・ロッジの支配人)がいった。「その国境だが、なぜここで急に曲がっているのか、知っているかね」インド洋から北西、まっすぐビクトリア湖に向かって延びてきた国境線は、キリマンジャロの手前で急に北にカーブし、五十キロほど回り込んでから北西に向きを変え、再びビクトリア湖に向かっている。一八八四年のベルリン会議で決まった国境だ。

ベルリン会議は、欧州列強によるアフリカ分割の会議だった。当時、英領ケニアには万年雪をかぶった山が三つあった。ケニア山(五、一九九メートル)、エルゴン山(四、三二一メートル)、そしてキリマンジャロである。隣のタンザニアを領していたドイツのウィルヘルム二世が、長い会議の期間中に誕生日を迎えた。誕生祝いに何がいいかを尋ねた英国のビクトリア女王に「雪のある山を一つ分けてもらえないか」と持ちかけた。女王は気軽に承諾し、それで国境が不自然に曲がることになったのだという。

それから百年余、国境は曲がったままだ。

「ここに昔から住んでいるアフリカ人は、あの山が人間に属するなんて思ってもいない。それを、一度もアフリカに来たことのない二人が、机の上で地図に線を引いて、勝手に分けてしまったというわけだ」

「キリマンジャロ タンザニア」より



●ちょっと頭を働かせると、逆に援助は生きてくる。

イタリア政府が西アフリカのガーナに、トラクター百台、二百三十万ドル分の援助を決めた。イタリアはそれをガーナ政府には渡さず、国連食糧農業機関(FAO)に渡して、配分をまかせた。

FAOの現地事務所には知恵者がいた。「ただのトラクター」ではだれも手入れせず、一年足らずで壊れてしまう実例を彼は見ていた。彼はイタリア政府に「トラクターを七十台に減らしてほしい」と申し入れる。残りの三十台分の予算で修理工場を三カ所つくってほしい。ガーナ人の優秀な若者を送るから、半年間、修理技術を教育してほしい―。

その上で彼は、トラクターがほしいと希望した七十の村に対し、市価の三分の一の値段でトラクターを「売った」。払いは十年ローン、作物の物納である。

それから「よく分かるトラクター」という巡回講座を開いた。使ったあとは必ず洗え。こまめに油をさせ。ネジはまず左に回し、カチッと音がしてから右に回せ。おかしいところがあったらすぐに修理工場に連絡しろ…。字が読めない農民にも理解できるごく初歩的なマニュアルを、徹底して教育したのである。

壊れてしまっても残りのローンは払わなければならない。トラクターを「買った」農民たちは必死になった。自分たちのトラクターなのである。毎日きれいに水洗いする。ちょっとおかしいと思うと工場に自転車を飛ばし、「クラッチのあたりから変な音がする」「ギアが引っかかる」と報告する。物納されたローンの作物は市場に出され、その代金は修理工場の技術者の給料となった。

同じころ、隣の地域に日本などが百台の「ただのトラクター」を援助した。一年足らずで八十台が動かなくなった。しかしイタリア援助のトラクターは、八年たってもぴかぴかで、すべて動いた。

「コメと農村 ケニア」より



●夜になって、困ったことが起きた。こちらが寝袋を広げて寝る準備を始めたのに、第三夫人は小屋から出て行かないのだ。「もう寝るので出ていってくれ」と通訳を頼むと、マサイ青年のエイモス君はまじめな顔で拒否した。(中略)

マサイは一夫多妻制だが、エイモス君によると、妻の方も、夫が宿泊を認めた客とはいっしょに寝るきまりがあるのだという。だいたいは夫と同じ年齢組の男性である場合が多いが、そういうとき、客は牛ふんの小屋の入口に槍を突き立てておく。槍がたっている間は、夫といえども妻の小屋に入れない。

マサイの生活では、男の死亡率が高い。遊牧中に野獣に襲われたり、牛戦争があったりするためだ。一夫多妻制は、夫を失った女性たちを救済するための社会保障の一種なのである。これはアラブの遊牧社会でも同じだ。

妻がほかの男と寝るのを認める制度は、その一夫多妻システムの不都合な部分を、マサイ流に手直ししたものなのだろう。広いサバンナに散在するマサイの生活では、ともすれば近親婚になりがちだ。その弊害を防ぐため、ほかの地域の男の血を入れなければならない。それを、一定のルールをもうけて保証したのだと思う。

いずれも、気候や風土、生活のリズムに合わせ、長い時間をかけて形成されてきた習慣だ。それを、別の社会の基準だけで野蛮だとか未開だとか決めつけることはできまい。

「牛ふんの家 ケニア」より



◎牛ふんでできたマサイの家

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