『いつか、すべての子供たちに』ウェンディ・コップ より
ウェンディさんの活動がこれほどまでに成功・拡大したのはなぜでしょうか。
「ここまでの何年かで私が行った選択に関しては、あまり後悔することはできない。当時の私が私であったことからは逃げられないし、そのときの経験があったからこそ、いまの私なのだ。」
『いつか、すべての子供たちに』ウェンディ・コップ より
◎スーダンの子供たち
『いつか、すべての子供たちに』ウェンディ・コップ より
ウェンディさんの活動がこれほどまでに成功・拡大したのはなぜでしょうか。
「ここまでの何年かで私が行った選択に関しては、あまり後悔することはできない。当時の私が私であったことからは逃げられないし、そのときの経験があったからこそ、いまの私なのだ。」
『いつか、すべての子供たちに』ウェンディ・コップ より
◎スーダンの子供たち
◎イブンシーナ病院(国立腎・泌尿器疾患センター・出血性消化器疾病救急センター)
1980年代に日本の支援によって建設された病院で、現在も年間2万人以上の外来患者を受け入れております。20年以上も前に日本から供与された機材が現在でも使用されているのを見ると嬉しくなりますよね(以下の写真にある機材)。
現在、日本から技術支援を受けているスーダンの国立水道公社です。スーダンの首都ハルツームでは水は水道からそのまま飲むことができるぐらい問題はなく、断水することもほとんどないのですが、施設の設計・維持管理や情報管理にはまだまだ課題があり、技術者への研修が必要です。一方、スーダン側は研修施設を建設したものの、その建物をそのまま放置しておりました…。そのため、研修のカリキュラムの作成を行ったり、研修を実際に実施したり、そして、研修施設を稼働可能な状態にするような支援を日本が実施しております。日本にいると水のありがたさにはなかなか気づきませんが、途上国にいると水、電気、道路等の基本的なインフラがあることのありがたさを実感します。スーダンに来てから、様々なものが足りないからこそそのありがたさに気付く!というような、とても逆説的な経験を数多くしております。(写真上:水道公社内、写真下:これから研修センターに生まれ変わるであろう建物)
1998年、当時のアメリカのクリントン政権はスーダンの首都ハルツームの製薬工場にミサイルを撃ち込み、破壊しました。その跡が今でも片付けられることなく残っております。首都にミサイルを撃ち込む…アジアで暮らしているとなかなか想像がつかないですよね…
日本ではスーダンに関するニュースはほとんど見かけません。そしてスーダンに関するニュースが報道されたとしてもそれは残念ながらネガティブなものばかりです。実は今週の水曜日、スーダンの未来を大きく左右するかもしれない重要な判決がハーグの常設仲裁裁判所で出されたのですが、その日の日本のニュースをネットで検索したところ、この話題を扱っている記事はありませんでした…ちなみに、海外のメディアでこの判決をいち早く取り扱っていたのはAl Jazeera(アラブ系の代表的メディア)でした。
スーダンは2005年に南北包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: 通称「CPA」)が結ばれるまで、20年以上もの間内戦が続きました(この内戦はよく「アフリカで最も長くそして悲惨な戦争」と形容されます)。つまり、私と同年代のスーダン人たちは、生まれてからつい最近まで「戦争をしているスーダン」しか知らなかったということになります。この内戦は一般的には「アラブ系イスラム教徒と反乱軍であるアフリカ系キリスト教徒の戦い」と言われおり(実際はもっと複雑な構図なのですが…)、スーダン北部に多く住むイスラム教徒に対して、スーダン南部に住むキリスト教徒である反乱軍が反旗を翻すという形で内戦がはじまり、そして長期化しました。当時のスーダンの政治はイスラム教徒によってコントロールされており、南部はSPLA(スーダン人民解放軍)を中心んとした勢力によって実質的には支配されておりました。その後、国際社会からの後押しもあり、周辺国の様々な都市で和平合意のための交渉が両者によってなされ、最終的には、北部の政権がスーダン南部に対して自治権を認め(一国二制度の導入)、石油の収入と権力を南部とシェアし、2011年に南部の独立を決める住民選挙を実施するという条件の下で、南北の和平合意が結ばれることになりました。それがCPAです。現在、CPAに基づいて、スーダン全体の政治は動いており、新聞では毎日のようにCPA関連の記事が特集されております。
一方、CPAの中でも決められなかったスーダン南北の境界線をめぐって、2007年末から2008年前半にかけて両者の対立が深まり、南北境界地域で数百人の死者がでたことから、第三者である仲裁裁判所(@オランダのハーグ)に南北の境界線をどこに設定するかという判断を委ねることになり、その判決が今週の水曜日に出たわけです。
結果は、簡単に言うと、係争地域の南北は南側に属し、石油がとれる東西は北側に属するという判決が出され、南北両陣営ともその結果を受け入れるという声明を出しました。
スーダンにいると、スーダンの未来を決めるような決定がヨーロッパでされるというのは不思議だなぁと感じます。もちろん、当事者同士ではなかなか決められず、境界線を巡って数百人の死者がでたことから、第三者に判断を委ねることになったわけですが、自国内の境界線の決定を第三者に依頼するというようなことはアメリカ、中国、ロシアなら絶対しないでしょう。そして、日本でさえも、例えば日本を南北に分割することになった場合、愛知を北に入れるか南に入れるかという決定をヨーロッパにある裁判所に任せたりするでしょうか(もちろん、日本とスーダンは前提が全く異なりますので、この例自体が適切でないことは十分承知しているのですが…)。
今年の3月にICC(国際刑事裁判所)がスーダンの現職のバシール大統領に対して逮捕状を出したことも私にとっては驚きでした。バシール大統領が独裁的であり、かつ、世界最大の人道危機といわれているダルフール問題を解決できないままでいるとしても、現在一国(それもアフリカ最大の国)の大統領職に就いている人に対して逮捕状を出すとは…スーダンの一般市民の意思とは関係ないところで物事が決められているような気がするのは私だけでしょうか。
もちろん、スーダン国内でも民族、宗教、住む地域、個人的経験によって大統領に対する意見は異なるでしょうから、「スーダンの一般市民」と簡単に一括りにすることはできませんが…(ちなみに、日本はICCの締約国ですが、日本政府は、ICCがスーダンの現職大統領に対して逮捕状を出すことを「尊重する」という談話を発表しています。)
「国際社会」の声は本当にスーダンの一般市民の声を反映しているのかどうか…2011年スーダンで実施される予定の住民投票までその答えはペンディングです。
◎南北境界線に関する判決が出たことを一面で伝えるローカルの新聞
その後スーザンから電話があり、「あなたをみかけないから心配したのよ」とのこと。2日前にも会っているのだけれど…「ケニアに出張に行ってたの」と言うと、「Welcome back!!」と歓迎してくれました。そういえば、大家の息子さんにも(私からは話してないのに)「ジュバはどうだったか?」と聞かれました。あれこれ注文の多い私は大家の家で話題になっているのでしょうか…苦笑。この家に移ってからしばらくはいろんなことがわからず、一日に何回も大家さんに電話をしていたら、スーザンから「あなたは一人暮らしをしたことがないんでしょ?何でもお母さんがしてくれていたんじゃないの?」と笑われました…一応9年間も親と離れて暮らしていたのですが…
スーザンは赤十字で働いており、来月ジュネーブで10日間の研修があるため、研修に参加する予定らしいのですが、若い未婚の女性が一人で海外に行くことは許されないとお父さんが大反対し、お母さんが一緒について行くのだそうです。スーザンは私と同じ歳なのですが…イスラム社会の女性の生活の一面を垣間見た気がしました。◎ナイロビの風景(事務所から見える街中の風景)
昨日は、地方視察に行きました。私の組織は、これから3年間かけて南部スーダンの現職教員をトレーニングし、教育の質を高めるというプロジェクトを支援する予定なのですが、そもそも教育の現場はどうなっているのかということを自分たちの目で確認するために、地方の学校を見学し、州の教育省の人たちと意見交換をしてきました。地方の町へのアクセスは、陸路はウガンダの反政府軍や強盗がいたりするので、空路を使います。ただし、日本やアメリカやインドのように地方へ行く民間機はあまり飛んでいないことから、国連機を使用します。南部スーダンの中心都市ジュバから飛ぶと、すぐに視界からは建物がなくなり、何もない土地(ところどころ木が生えている)がひたすら広がります。そこに舗装されていない道路が一本伸びているのですが、ここで奇襲されたらもうどうしようもないだろうな…(すぐに警察が来れるような距離・場所ではないので)と上空から地上を見て少し怖くなりました。
◎上:国連機、下:飛行機からの風景(ナイル川)
◎マザーハウスのバッグ
これは毎日会社に行くときに使っています。途上国発のブランドをつくる!という志を胸に、私と同じ歳の女性がバングラデシュでバングラデシュの人たちとバングラデシュで生産されるジュートを使ったバッグを製造し、マザーハウスというバッグ専門販売店をたちあげました。なぜバングラデシュかというと、彼女がインターネットで「アジア」「最貧国」で検索したらバングラデシュが出てきたからだそうです。彼女の自伝『裸でも生きる』は去年読んだ本の中で最も印象的な本の一つです。途上国で働くときに誰しもが直面する苦悩やそれゆえの喜びが書かれていて、「うんうん、そうだよな」と思いながら一気に読んでしまいました。彼女が講演会で「社会起業家だとよく言われますが、社会起業家という意味がよくわかりません。世の中に生き残っている会社は社会にいいものを提供するからこそ生き残っているわけで、そうだとすればそういう会社の経営者はみな社会起業家なのではないでしょうか。」と話していたことが今でも心に残っています。会社で家族みたいに仲良くしている同僚たちがプレゼントしてくれました。◎People Treeのネックレス
これは休日につけています。ファッションとフェアトレードを通じて世界の貧困問題を解決しようとするソフィア・ミニーさんがたちあげた企業People Treeの商品です。びっくりするほどオシャレでかわいい商品をたくさん生みだすPeople Tree。この商品が途上国でつくられており、かつ途上国の人たちの生計向上に役立っているというのだから素晴らしいですよね。以前、あるフェアトレードの団体のトップの方が、「フェアトレードの商品を買うということは、ただ物を買っているのではなく、『価値』という目に見えないものを同時に買っているのです。」とおっしゃっていました。会社の同期がみんなで贈ってくれたものですが、ネックレスと一緒に素敵な『価値』をプレゼントしてくれてありがとう!