2009年7月31日金曜日

Teach for America

「私を動かしつづけているのは、わが国に根強く存在する不平等に対する怒りだ。」

『いつか、すべての子供たちに』ウェンディ・コップ より

『いつか、すべての子供たちに』という本を読みました。アメリカはどこで育ったかによって享受できる教育に差があることに気づいたウェンディ・コップさんは、大学卒業してすぐにTeach for Americaという団体を立ち上げます。この団体は、アメリカの優秀な大学を卒業した人たちがアメリカの貧困層が多い地域で2年間教職に就くことによって、貧しい地域で育つ子どもたちに良質な教育を受ける機会を提供するだけでなく、若い優秀な人たちが教職に就いたことをきっかけに(教員、教育政策形成、学校経営等の形で)教育に何らかの形で生涯かかわっていくようになることを目指します。団体設立当時、若干21歳だったウェンディさんはアメリカの名だたる企業の経営陣から多くの資金を調達し、アメリカ中から優秀な若者を集めてトレーニングし、貧しいことによって十分な教育を受ける機会を得られない子供たちがいるところへ派遣し続けました。もちろん、初めは数多くの失敗を繰り返しながら、そして、日々資金調達に追われながら、それでも彼女はTeach for Americaの可能性と必要性をひたすら信じて、多くの仲間に恵まれながら、着実に実績を積み上げていきました。厳しい選抜をくぐりぬけて選ばれた若者たちは、通常であれば優秀な大学を卒業した後コンサルティング会社や金融機関に就職するのですが、何か世の中のためになることをしたいという思いを胸に、2年間教師になる道を選びます。若くて、情熱と知性を兼ね備えた若者に教えられた子供たちは見る見るうちに成績を伸ばし、将来の選択肢の幅を増やすことになります。1990年から始めた活動は、2000年にはクリントン元大統領にも認められるほど拡大し、これまでに14000人以上の優秀な若者を教師としてアメリカ中の貧困地域に送り込みました。今ではTeach for Americaはアメリカの学生の就職希望先ランキングのトップ10にランクインするほどの人気です。

 ウェンディさんの活動がこれほどまでに成功・拡大したのはなぜでしょうか。

●Teach for Americaは、小さな非営利団体や教師のトレーニング・プログラムのモデルになるのではない。Movementとなるのだ。●十分に思いやり、十分に信じることができたとき、人は変化を起こせる。●私たちが自らに問うべきことは、「どうすれば、うまくやれるだろうか」ではなく、「うまくやらずに、済まされるわけがない」ということ●私は大きく考えること(thinking big)をやめなかった。●「エキスパート」と「非エキスパート」を分ける(中略)たった一つの特質は、知性でも努力でもなく「素直さ」であり、常に学ぼうとする気持ちだった。●安定的で勢いのある組織となって、アメリカのすべての子供たちが優れた教育を受けられるようになるまで、ミッションを追求する

このように様々なヒントが本には書かれてますが、私が感じたウェンディさんと普通の人との違いは、「信じること」に対して妥協せずに緊迫感をもって取り組んだところです。これは簡単に見えますが、実践することはとても難しい…。まずは、何を信じるか。そして、もうこれでいいのだと満足しないでいつもあるべき姿を追い続けられるか。更に、「いつか」ではなく、「私たちが生きている間に」達成することを目指せるか…。途上国の開発援助を生業とする私たちにも同じ問いが有効です。何を信じてどこに向かって走るのか…長年希望していた舞台に立って少し方向感覚を失っている今の私にとっては重い問いです。

「ここまでの何年かで私が行った選択に関しては、あまり後悔することはできない。当時の私が私であったことからは逃げられないし、そのときの経験があったからこそ、いまの私なのだ。」

『いつか、すべての子供たちに』ウェンディ・コップ より

◎スーダンの子供たち


2009年7月26日日曜日

サイト視察@ハルツーム


東京からの出張者に付き添う形で、ハルツーム市内のサイト視察に行きました。

◎イブンシーナ病院(国立腎・泌尿器疾患センター・出血性消化器疾病救急センター)

1980年代に日本の支援によって建設された病院で、現在も年間2万人以上の外来患者を受け入れております。20年以上も前に日本から供与された機材が現在でも使用されているのを見ると嬉しくなりますよね(以下の写真にある機材)。

◎水道公社

現在、日本から技術支援を受けているスーダンの国立水道公社です。スーダンの首都ハルツームでは水は水道からそのまま飲むことができるぐらい問題はなく、断水することもほとんどないのですが、施設の設計・維持管理や情報管理にはまだまだ課題があり、技術者への研修が必要です。一方、スーダン側は研修施設を建設したものの、その建物をそのまま放置しておりました…。そのため、研修のカリキュラムの作成を行ったり、研修を実際に実施したり、そして、研修施設を稼働可能な状態にするような支援を日本が実施しております。日本にいると水のありがたさにはなかなか気づきませんが、途上国にいると水、電気、道路等の基本的なインフラがあることのありがたさを実感します。スーダンに来てから、様々なものが足りないからこそそのありがたさに気付く!というような、とても逆説的な経験を数多くしております。(写真上:水道公社内、写真下:これから研修センターに生まれ変わるであろう建物)

◎製薬工場(おまけ)

1998年、当時のアメリカのクリントン政権はスーダンの首都ハルツームの製薬工場にミサイルを撃ち込み、破壊しました。その跡が今でも片付けられることなく残っております。首都にミサイルを撃ち込む…アジアで暮らしているとなかなか想像がつかないですよね…

2009年7月25日土曜日

南北の境界線

日本ではスーダンに関するニュースはほとんど見かけません。そしてスーダンに関するニュースが報道されたとしてもそれは残念ながらネガティブなものばかりです。実は今週の水曜日、スーダンの未来を大きく左右するかもしれない重要な判決がハーグの常設仲裁裁判所で出されたのですが、その日の日本のニュースをネットで検索したところ、この話題を扱っている記事はありませんでした…ちなみに、海外のメディアでこの判決をいち早く取り扱っていたのはAl Jazeera(アラブ系の代表的メディア)でした。

スーダンは2005年に南北包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: 通称「CPA)が結ばれるまで、20年以上もの間内戦が続きました(この内戦はよく「アフリカで最も長くそして悲惨な戦争」と形容されます)。つまり、私と同年代のスーダン人たちは、生まれてからつい最近まで「戦争をしているスーダン」しか知らなかったということになります。この内戦は一般的には「アラブ系イスラム教徒と反乱軍であるアフリカ系キリスト教徒の戦い」と言われおり(実際はもっと複雑な構図なのですが…)、スーダン北部に多く住むイスラム教徒に対して、スーダン南部に住むキリスト教徒である反乱軍が反旗を翻すという形で内戦がはじまり、そして長期化しました。当時のスーダンの政治はイスラム教徒によってコントロールされており、南部はSPLA(スーダン人民解放軍)を中心んとした勢力によって実質的には支配されておりました。その後、国際社会からの後押しもあり、周辺国の様々な都市で和平合意のための交渉が両者によってなされ、最終的には、北部の政権がスーダン南部に対して自治権を認め(一国二制度の導入)、石油の収入と権力を南部とシェアし、2011年に南部の独立を決める住民選挙を実施するという条件の下で、南北の和平合意が結ばれることになりました。それがCPAです。現在、CPAに基づいて、スーダン全体の政治は動いており、新聞では毎日のようにCPA関連の記事が特集されております。

一方、CPAの中でも決められなかったスーダン南北の境界線をめぐって、2007年末から2008年前半にかけて両者の対立が深まり、南北境界地域で数百人の死者がでたことから、第三者である仲裁裁判所(@オランダのハーグ)に南北の境界線をどこに設定するかという判断を委ねることになり、その判決が今週の水曜日に出たわけです。

結果は、簡単に言うと、係争地域の南北は南側に属し、石油がとれる東西は北側に属するという判決が出され、南北両陣営ともその結果を受け入れるという声明を出しました。

スーダンにいると、スーダンの未来を決めるような決定がヨーロッパでされるというのは不思議だなぁと感じます。もちろん、当事者同士ではなかなか決められず、境界線を巡って数百人の死者がでたことから、第三者に判断を委ねることになったわけですが、自国内の境界線の決定を第三者に依頼するというようなことはアメリカ、中国、ロシアなら絶対しないでしょう。そして、日本でさえも、例えば日本を南北に分割することになった場合、愛知を北に入れるか南に入れるかという決定をヨーロッパにある裁判所に任せたりするでしょうか(もちろん、日本とスーダンは前提が全く異なりますので、この例自体が適切でないことは十分承知しているのですが…)。

今年の3月にICC(国際刑事裁判所)がスーダンの現職のバシール大統領に対して逮捕状を出したことも私にとっては驚きでした。バシール大統領が独裁的であり、かつ、世界最大の人道危機といわれているダルフール問題を解決できないままでいるとしても、現在一国(それもアフリカ最大の国)の大統領職に就いている人に対して逮捕状を出すとは…スーダンの一般市民の意思とは関係ないところで物事が決められているような気がするのは私だけでしょうか。

もちろん、スーダン国内でも民族、宗教、住む地域、個人的経験によって大統領に対する意見は異なるでしょうから、「スーダンの一般市民」と簡単に一括りにすることはできませんが…(ちなみに、日本はICCの締約国ですが、日本政府は、ICCがスーダンの現職大統領に対して逮捕状を出すことを「尊重する」という談話を発表しています。)

「国際社会」の声は本当にスーダンの一般市民の声を反映しているのかどうか…2011年スーダンで実施される予定の住民投票までその答えはペンディングです。

◎南北境界線に関する判決が出たことを一面で伝えるローカルの新聞

2009年7月21日火曜日

『いつも君の味方』

さだまさしさんの『いつも君の味方』という著書をスーダンへ行く前に大切な友人からもらいました。赴任前後はばたばたしててゆっくり本を読もうという気持にならなかったのでスーツケースの中に入れたままだったのですが、赴任してようやく一か月が経ち、気持ちにも余裕がでてきたので、本を取り出して読んでみると、人との縁を大事に人生を丁寧に生きてきたさだまさしさんの宝物のような体験談がたくさん詰まってて一人で号泣しながら一気に読んでしまいました。
スーダンに来る前、大事な人とほどきちんとお別れをできないまま出発の日を迎えてしまった気がします。なんだか気持さえつながっていれば世界中どこにいても(たとえスーダンにいたとしても)会おうと思えばいつでも会える気がして…でもさだまさしさんが書かれているように、「その出会いが実に自分にとりどれほど大切なものであったのかを知るのは、ほとんどそれを失ってからなのである。この出会いがどれほど大切なのかを知るすべもないと知った時、人の取る態度はどちらかだ。いっそ出会いのすべてを当てにしないか、すべての出会いを大切に抱きしめるか」…流れるように日々を生きているとなかなかいつも後者のようには振る舞えませんが、そういう努力はしたいものだなぁとさだまさしさんの数々の素敵な出会いに係るエピソードを読んでそう思いました。
それにしても、さだまさしさんがバンド仲間から「君が世界中を敵に回しても、僕だけは君の味方だよ」と言われたエピソードに付箋をはって、この本をプレゼントしてくれた友人は本当に熱いですね。新入社員の頃私が上司に何度も怒られているのを見て、「ストレス社会で闘う人のために」というチョコを買ってきてくれたのも彼でした。私のカッコ悪いところをたくさん見て、それでもいつも温かい目で私を応援してくれた同志に感謝です。スペインとスーダンでいったん道は別れますが、またいつか一緒に働きましょう。

●「駄目な自分であっても、一生懸命の姿を観て貰うこと。」
●「生命はあっという間に訪れ、あっという間に去る。生まれ、悩み、苦しみ、喜び、笑い、泣き、懸命に生きていつか死ぬ。だがその短い間に自分という「文化」を自分の中に創ることができるはずだ。」
●「人の出会いは、別の人を思いがけないところまで連れてゆくものらしい。」
●「「君が世界中を敵に回しても、僕だけは君の味方だよ」重たい重たい、一生のエールである。」

『いつも君の味方』 さだまさし より

2009年7月19日日曜日

大家さん

ケニアへの出張から家に戻って来ると、明らかに家に誰かが侵入した痕跡が…「誰だ??」と思いながらリビングのテーブルを見ると、手紙と大きな鍋が…「ママがあなたのために料理をつくったのでどうぞ。気に入ると嬉しいです。スーザン」という大家さんの娘さんからの置き手紙ととても一人では食べきれない量のチキンとパスタがありました。

その後スーザンから電話があり、「あなたをみかけないから心配したのよ」とのこと。2日前にも会っているのだけれど…「ケニアに出張に行ってたの」と言うと、「Welcome back!!」と歓迎してくれました。そういえば、大家の息子さんにも(私からは話してないのに)「ジュバはどうだったか?」と聞かれました。あれこれ注文の多い私は大家の家で話題になっているのでしょうか…苦笑。この家に移ってからしばらくはいろんなことがわからず、一日に何回も大家さんに電話をしていたら、スーザンから「あなたは一人暮らしをしたことがないんでしょ?何でもお母さんがしてくれていたんじゃないの?」と笑われました…一応9年間も親と離れて暮らしていたのですが…

スーザンは赤十字で働いており、来月ジュネーブで10日間の研修があるため、研修に参加する予定らしいのですが、若い未婚の女性が一人で海外に行くことは許されないとお父さんが大反対し、お母さんが一緒について行くのだそうです。スーザンは私と同じ歳なのですが…イスラム社会の女性の生活の一面を垣間見た気がしました。

2009年7月18日土曜日

Business Trip @ナイロビ

一泊二日でケニアのナイロビに出張に行ってきました。ジュバ→ハルツーム→ナイロビへと移動するとナイロビの発展度合いに驚くばかりです。まるでアメリカに来たのではないか?!と感じてしまうほど都会で、高層ビルが立ち並び、人々がさっそうと歩いている風景にキョロキョロしてしまいました(9年も東京に住んでいたのにも関わらず、スーダンへの一か月の滞在ですっかりスーダンに慣れてしまったようです)。何かと「アフリカは…」とひとくくりで語られがちですが、アフリカでも国、都市によって全然発展度合いは異なるので、「アフリカは…」というような議論は意味がないなと感じます。一方で、ナイロビの治安はかなり悪いようで、昼間でも外国人は外を歩けないそうです。そう考えると、ナイロビほど発展はしていないけれど、夜でも一人で歩けるスーダンの首都ハルツームの方が暮らしやすい気もします…。「発展=素晴らしい」という図式では必ずしもないところが難しいところです。

◎ナイロビの風景(事務所から見える街中の風景)

今回の出張の目的は、ケニアの教員研修校の見学です。ケニアのナイロビには、アフリカ十数カ国の現職教員がトレーニングを受けにくる研修校があります。これから始まる南部スーダンの教員研修事業の中で教員に対して研修を行うTrainersをここに送り込み、研修をした後、南部スーダンに合った形の研修プログラムをTrainersが考案し、それに沿って教員研修が実施される予定です。研修校では、前回スーダンの教員を70名近く受け入れた際の話を聞いたり、施設を見学したり、今後の南部スーダンの事業計画を紹介したりしました。ケニアや他のアフリカ諸国での教員研修の経験は、南部スーダンで今後事業を展開していく上でかなり重要なLessonsになります。「日本での経験は…」というと何十年の前の話になりますし、そもそも遠い国の話になってしまいイメージがわきにくいですが、「ケニアでは…」とケニアの経験をケニア人が南部スーダン政府の前で話すと「なるほど…」と納得しながら聞き入るスーダン人がいました。近隣諸国から学びつつ、南部スーダンの実情に合った教育システム(教員研修の制度)をつくりあげていくことが求められています。

◎上:ナイロビの教員研修校、下:ケニアの教育省

2009年7月11日土曜日

Business Trip @ジュバ

南部スーダンの中心都市であるジュバに出張で来ています。ジュバは、イスラム系の北部スーダンのハルツームとは全く雰囲気が異なり、これぞアフリカ!という雰囲気のところです。まるで別の国のようで…私の上司は、そのようなスーダンを「一粒で二度美味しい」と表現しておりますが。建物が少なく、ホテルはコンテナを重ねたものだったり、テントだったりしますが、さすがに省庁の建物は(イギリス植民地時代のものをそのまま使用しているインドや北部スーダンのように立派ではありませんが)コンテナや掘立小屋というわけではなく、綺麗でシンプルなビルです。

◎南スーダン教育省の建物

北部と異なり、かなり英語が通じるので仕事も生活もしやすいです。もちろん、北部と違ってマラリアもありますし、湿気が多くてじめじめしているので、そういった意味で生活しづらい面もありますが…(毎晩蚊帳の中で寝てます)。北部の仮の住まいをブログで紹介した際には、いろんな方から「豪邸に住んでいるんだね」と言われましたが、南部でこれから2年間住むところは、このような場所です。
6畳ぐらいのところにベッドとイスとクローゼットがあって、あとは小さなトイレとシャワーだけ。早く建物が建ってアパートなどに移れるといいのですが、建設資材等すべてのものを海外から運んできている南部スーダンでは、建物をたてるだけでも多大なコストと時間を要するので、結局2年間ずっとここのような気がします…

昨日は、地方視察に行きました。私の組織は、これから3年間かけて南部スーダンの現職教員をトレーニングし、教育の質を高めるというプロジェクトを支援する予定なのですが、そもそも教育の現場はどうなっているのかということを自分たちの目で確認するために、地方の学校を見学し、州の教育省の人たちと意見交換をしてきました。地方の町へのアクセスは、陸路はウガンダの反政府軍や強盗がいたりするので、空路を使います。ただし、日本やアメリカやインドのように地方へ行く民間機はあまり飛んでいないことから、国連機を使用します。南部スーダンの中心都市ジュバから飛ぶと、すぐに視界からは建物がなくなり、何もない土地(ところどころ木が生えている)がひたすら広がります。そこに舗装されていない道路が一本伸びているのですが、ここで奇襲されたらもうどうしようもないだろうな…(すぐに警察が来れるような距離・場所ではないので)と上空から地上を見て少し怖くなりました。

◎上:国連機、下:飛行機からの風景(ナイル川)


ジュバから国連機で30分のところにあるトリットという町で、小学校や中学校をいくつか視察しましたが、その中には日本政府の援助で建設された学校もありました。どの学校も生徒があふれており、一つの教室に100人近く生徒がいるところも…国連機関のGo to School Initiativeでかなりの子供たち(この中には紛争中にウガンダやケニア、またはスーダン国内の別の場所に逃げていた子供たちも含まれます)が小学校に通うようになったようですが、そのせいで教室に生徒があふれてしまい、とても授業をマネージできるような状況にはない…そのため、今後は、単に生徒の数を増やすということではなく、どのように「教育の質」を改善していくかということが鍵になるようです(現地で働く国際NGOの職員の方の話)。内戦で学校に通えなかった子供たちもいるため、一つの教室の中には小さい子からかなり大きな子までごちゃまぜです。また、男の子に比べて女の子の数は少ないですが、その理由の一つは早くで結婚してしまうからだそうです。スーダンの小学生は6歳から14歳までなのですが、それでも結婚の影響はあるんですね。ちなみに、教室や学校の数が足りないトリットでは、一つの学校に二人の校長先生を設けて、午前と午後で別々の生徒に授業を提供するという工夫をしているようです。

◎小学校の様子(教室に入りきれない生徒が木の下で授業を受けています)

2009年7月5日日曜日

新居@ハルツーム

と一か月首都に滞在するため、アパートに引っ越しました。家具付で事務所から歩いて5分のところにあり、大家さんも(アラビア語しか話さないことからコミュニケーションがあまりとれないのですがそれでも)いい人であることが滲み出ていたのでここに決めました。昔、African Mission in Sudanの本拠地があったところの目の前の建物です。外観と内装はこのような感じです。

スーダンではなかなか一人暮らし用のアパートを見つけることができません。どのような家も家族で住むことが前提のつくりです。そもそも、子どもたちは結婚するまで親と一緒に暮らすのが当たり前のようで、「なぜ一人で暮らすのか?そのような生活は想像できない」とローカルスタッフに言われました。また、スーダンの家はお客さんが多いことから居間がかなり大きな造りになってます。親戚や友人が長居するのは当たり前で、夜でも突然家を訪ねてきたりすることは日常茶飯事なのだそうです。事前に訪問を知らせると「何かを準備しておくように」と言っているようなものなので、「突然」訪問することが訪問先へのエチケットらしいのですが…どっちが家主にとっては都合がいいのでしょうか…

2009年7月3日金曜日

Socialな贈り物

スーダンに赴任する前に、大切な人たちからたくさんの贈り物をいただきました。それらのプレゼントの中には、ものづくりを通して途上国の貧困問題に取り組む企業・人がつくったものがいくつかあったのでここで紹介します。

◎マザーハウスのバッグ

これは毎日会社に行くときに使っています。途上国発のブランドをつくる!という志を胸に、私と同じ歳の女性がバングラデシュでバングラデシュの人たちとバングラデシュで生産されるジュートを使ったバッグを製造し、マザーハウスというバッグ専門販売店をたちあげました。なぜバングラデシュかというと、彼女がインターネットで「アジア」「最貧国」で検索したらバングラデシュが出てきたからだそうです。彼女の自伝『裸でも生きる』は去年読んだ本の中で最も印象的な本の一つです。途上国で働くときに誰しもが直面する苦悩やそれゆえの喜びが書かれていて、「うんうん、そうだよな」と思いながら一気に読んでしまいました。彼女が講演会で「社会起業家だとよく言われますが、社会起業家という意味がよくわかりません。世の中に生き残っている会社は社会にいいものを提供するからこそ生き残っているわけで、そうだとすればそういう会社の経営者はみな社会起業家なのではないでしょうか。」と話していたことが今でも心に残っています。会社で家族みたいに仲良くしている同僚たちがプレゼントしてくれました。

People Treeのネックレス

これは休日につけています。ファッションとフェアトレードを通じて世界の貧困問題を解決しようとするソフィア・ミニーさんがたちあげた企業People Treeの商品です。びっくりするほどオシャレでかわいい商品をたくさん生みだすPeople Tree。この商品が途上国でつくられており、かつ途上国の人たちの生計向上に役立っているというのだから素晴らしいですよね。以前、あるフェアトレードの団体のトップの方が、「フェアトレードの商品を買うということは、ただ物を買っているのではなく、『価値』という目に見えないものを同時に買っているのです。」とおっしゃっていました。会社の同期がみんなで贈ってくれたものですが、ネックレスと一緒に素敵な『価値』をプレゼントしてくれてありがとう!


これはスーツで会社に行く時につけています。Ethicalなジュエリー(紛争の原因になっていない、誰も搾取していない、そして、環境破壊の原因になっていないことが証明されているものだけを使ったジュエリー)をオーダーメイドで提供する企業Hasuna。私は今までダイヤモンドはどこで生産されたかトレースできない仕組みになっていると聞いていたのですが、ここのダイヤモンドはconflict-freeである(つまりBloody Diamondではない)ことがちゃんと証明されたものなのだそうです。元は途上国の貧困削減を目指す国際機関で働いていたというHasunaの代表。同じ目標を達成するためにアプローチを変えたということなのでしょう。私が敬愛する友人が私のイメージでオーダーメイドしてくれたのですが、そのペンダントの金具のところには「道」という文字が彫られていました。彼女には彼女の道が、そして、私には私の道があるということ。このペンダントと一緒に私はスーダンで小さな一歩を踏み出しています。