2009年7月25日土曜日

南北の境界線

日本ではスーダンに関するニュースはほとんど見かけません。そしてスーダンに関するニュースが報道されたとしてもそれは残念ながらネガティブなものばかりです。実は今週の水曜日、スーダンの未来を大きく左右するかもしれない重要な判決がハーグの常設仲裁裁判所で出されたのですが、その日の日本のニュースをネットで検索したところ、この話題を扱っている記事はありませんでした…ちなみに、海外のメディアでこの判決をいち早く取り扱っていたのはAl Jazeera(アラブ系の代表的メディア)でした。

スーダンは2005年に南北包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: 通称「CPA)が結ばれるまで、20年以上もの間内戦が続きました(この内戦はよく「アフリカで最も長くそして悲惨な戦争」と形容されます)。つまり、私と同年代のスーダン人たちは、生まれてからつい最近まで「戦争をしているスーダン」しか知らなかったということになります。この内戦は一般的には「アラブ系イスラム教徒と反乱軍であるアフリカ系キリスト教徒の戦い」と言われおり(実際はもっと複雑な構図なのですが…)、スーダン北部に多く住むイスラム教徒に対して、スーダン南部に住むキリスト教徒である反乱軍が反旗を翻すという形で内戦がはじまり、そして長期化しました。当時のスーダンの政治はイスラム教徒によってコントロールされており、南部はSPLA(スーダン人民解放軍)を中心んとした勢力によって実質的には支配されておりました。その後、国際社会からの後押しもあり、周辺国の様々な都市で和平合意のための交渉が両者によってなされ、最終的には、北部の政権がスーダン南部に対して自治権を認め(一国二制度の導入)、石油の収入と権力を南部とシェアし、2011年に南部の独立を決める住民選挙を実施するという条件の下で、南北の和平合意が結ばれることになりました。それがCPAです。現在、CPAに基づいて、スーダン全体の政治は動いており、新聞では毎日のようにCPA関連の記事が特集されております。

一方、CPAの中でも決められなかったスーダン南北の境界線をめぐって、2007年末から2008年前半にかけて両者の対立が深まり、南北境界地域で数百人の死者がでたことから、第三者である仲裁裁判所(@オランダのハーグ)に南北の境界線をどこに設定するかという判断を委ねることになり、その判決が今週の水曜日に出たわけです。

結果は、簡単に言うと、係争地域の南北は南側に属し、石油がとれる東西は北側に属するという判決が出され、南北両陣営ともその結果を受け入れるという声明を出しました。

スーダンにいると、スーダンの未来を決めるような決定がヨーロッパでされるというのは不思議だなぁと感じます。もちろん、当事者同士ではなかなか決められず、境界線を巡って数百人の死者がでたことから、第三者に判断を委ねることになったわけですが、自国内の境界線の決定を第三者に依頼するというようなことはアメリカ、中国、ロシアなら絶対しないでしょう。そして、日本でさえも、例えば日本を南北に分割することになった場合、愛知を北に入れるか南に入れるかという決定をヨーロッパにある裁判所に任せたりするでしょうか(もちろん、日本とスーダンは前提が全く異なりますので、この例自体が適切でないことは十分承知しているのですが…)。

今年の3月にICC(国際刑事裁判所)がスーダンの現職のバシール大統領に対して逮捕状を出したことも私にとっては驚きでした。バシール大統領が独裁的であり、かつ、世界最大の人道危機といわれているダルフール問題を解決できないままでいるとしても、現在一国(それもアフリカ最大の国)の大統領職に就いている人に対して逮捕状を出すとは…スーダンの一般市民の意思とは関係ないところで物事が決められているような気がするのは私だけでしょうか。

もちろん、スーダン国内でも民族、宗教、住む地域、個人的経験によって大統領に対する意見は異なるでしょうから、「スーダンの一般市民」と簡単に一括りにすることはできませんが…(ちなみに、日本はICCの締約国ですが、日本政府は、ICCがスーダンの現職大統領に対して逮捕状を出すことを「尊重する」という談話を発表しています。)

「国際社会」の声は本当にスーダンの一般市民の声を反映しているのかどうか…2011年スーダンで実施される予定の住民投票までその答えはペンディングです。

◎南北境界線に関する判決が出たことを一面で伝えるローカルの新聞

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