2011年11月20日日曜日

ロシナンテス@東北

閖上(宮城)にて



2週間ほど前に東北(名取)で活動するロシナンテスにコンパスポイントのみんなでお世話になりました。
震災後の復興支援を現地密着型かつ型にはまらず自由な発想で行っているロシナンテス。


「まずは現地に行って見ればいい。自分に何ができるかは、それから考えればええ。」代表の川原さんの言葉。


この言葉がきっかけで東北で活動するロシナンテスのドアをたたく人たちも多いのではないでしょうか。


日本中から老若男女問わずさまざま人たちを引き寄せ、現地のニーズに合った活動を皆で力をあわせて行っていくためのプラットフォームを提供し続けているロシナンテス。


このスタイルはスーダンでも東北でもかわらないなぁ。


きっと、東北の被災地の方々の人生だけでなく、そこに関わった多くの人たちの人生を変え続けている団体。


今後も様々な形で東北・ロシナンテスと繋がって行ければと思った二日間でした。




現地で感じたことをうまく言葉に表すことは難しく…そんな中で上野千鶴子さんの「原爆のあとで、ホロコーストのあとで、大震災と津波のあとで、原発の恐怖のなかで、コトバは無力か?と問いかけられたら…無力だとおもう。でも無力でないとも思う。乾いた魂に水が吸い込まれるようなコトバが書けたら…書き手のすべてにとってのねがいをこめて、被災地に送りたい。」という言葉を思い出したり。




そして、言葉にならない思いをシンプルに、でも、力強く歌った加藤登紀子さんの歌『今どこにいますか』とMr.Childrenの歌『かぞえうた』に励まされた私自身がいました。




忘れずに、感じつづけること・考え続けること・そして行動すること。




そうありたい、そうあろうと思います。

2011年11月8日火曜日

Then & there, and now & here

南スーダンのジュバの空と虹



駐在を終えて南スーダンから戻ってきて1か月が経ちました。


戻ってきた当初は、東京のスピードについていくのがなかなか難しく、電車をあわてて反対方向に乗ってしまったり、自動ドアにぶつかったり、交差点の人の多さに驚いたり(思わず写真をとりたくなりました)…


一方で、南スーダンでは絶対無理だった、夜の一人歩きや自由な買い物、そして、料理や湯船に浸かることを堪能していました。


駐在の総括はなかなか難しいのですが、思いついたことをメモのような形でもいいので残しておきたいと思い、ブログを書いています。


まず、南スーダンに2年4か月滞在し、また、その間にスーダン・ケニア・エチオピア・ウガンダを訪問することができたため、アフリカへの心理的距離がぐんと近づいたなぁと感じています。
必要なら、または、望めば、明日にでも飛行機でふらっと行くことができる…それぐらい身近な場所になりました。
メディアを通して知るアフリカのイメージはどうしてもネガティブで、私自身行くまでは、「大丈夫かな?」と思っていたところもあったのですが、ちゃんとした情報ソースからタイムリーに治安情報を得ていれば、特に危ない目にあうこともないということを経験から知りました。
スーダンの首都ハルツームなんて本当に平和で、私のアフリカのイメージを根本から変えてくれました。


また、仕事で自分自身が使う言葉にとても敏感になったと思います。
新入社員のころにインドを担当して出張にでかけていたときには、自分が英語で話すときに使う単語にまで気を使う余裕はありませんでしたが、他のドナーの態度を見ることで、どの単語を使うかによってその言葉を発している人の持つ思想が読み取れるということを痛感したため、気をつけるようになりました。
Help/ Aidという言葉は使わず、Cooperateと言う。
Problemsを聞くことはせず、Challengesを聞く。 などなど。
とっても単純なことなのですが、現場で様々なドナーの会話を聞いていると、結構これをできてない人は多いのです。
いきなり外からやってきた豊かな国の人たちに「あなたを助けにきました」「あなたの抱える問題はなんですか?」と言われたらどのような気持ちになるだろう…そういった想像力をずっと忘れずにいたいです。


長年の夢でもあった平和構築の現場での仕事にどっぷり浸かり、国づくり支援の醍醐味と難しさも実感しました。
醍醐味は、やはり、国際社会の支援なしには総選挙、住民投票、そして独立といったステップをたどることはほぼ無理だったであろう南スーダンを目の当たりにし、国際社会が介入することによって実現する平和があることを教科書だけではなく現実の世界のこととして知ったこと。
一方、数十年も内戦をしていた国・人達と、国の制度やシステムをつくり動かしていくという作業は数年単位でできることではなく、何十年かけてトライ&エラーを繰り返しながらつくりあげていくものであるにも関わらず、ドナーの都合でつぎはぎだらけのいびつな制度が急ごしらえで用意され、文字通り「形」だけが整えられていったこと―これには一抹の寂しさ・むなしささえ感じました。


更には、今の組織に属しながらも、現地NGO、国際NGO、国連、大使館等の仕事内容を垣間見ることができたのも大きな収穫でした。
例えば、UNDPやUNICEFなんかはうちの組織と近く、先方政府の能力強化にフォーカスした事業をいくつもやっていますが、WFPやUNHCRは緊急支援的要素が強いため、やはりうちの組織とはかなり色が異なることなど、勉強になりました。
UNHCRは「今そこにある危機」への対応が求められる、そして、何万人もの命を短期間に救って明日に繋げて行くことが求められる仕事ですが、そういうものに対する憧れの気持ちは未だあるものの、一方で、自分自身は中長期的に現地の人たちと向き合っていきたいタイプですので、きっとそういう意味では緊急支援系の仕事は向かないのだろうなぁと気づいたり。


あとは、プロジェクト型支援の難しさについて。
平和構築の現場では、政府の制度や組織さえも流動的で、政策もあるようでなかったりします。そのような中で、例えば3年のプロジェクトをつくって、ある程度の仮説をたて、達成目標を設定していく―絵にかいたらとても美しいかもしれませんが、現実の世界ではそんなにうまくいくはずもなく…
まさに「事件は現場で起こっている」のですから、また、現地の状況は日々変化していくのですから、我々の協力内容もそれに合わせて流動的であるべきです。
でも、どのドナーも成果を求めすぎるあまり、硬直的な時間設定とフレームで現実を無理やり切り取ろうとする…その弊害をいくつも見てきました。


最後は、やはり、現地で起こっていることの責任をとることができるのは現地の人なので、外部者は外部者としての役割に徹することが大切だと強く感じました。希望を持ち続けながら、現地の人たちをエンパワーしていく―主役はあくまでも現地の人たち。
そういった意味では、平和構築の現場では「平和の配当」を人々に実感してもらうためにスピーディな支援が求められていますが、一方で、中長期的な国づくりの視野にたった、人づくりに貢献することも同じぐらい大切なことだと思いました。


他にも、ずっとプレハブ・コンテナに住んでいたためあまり物を必要としなくなった等、自分の中での小さな変化や気づきはいくらでもありますが、それはまたの機会に。


日本に舞台は移しましたが、今後も私のアンテナにひっかかったことについて、ブログで記録をつけていければと思っています。


これからもよろしくお願いいたします。

2011年9月30日金曜日

建国62周年記念




今週は中国大使館のレセプションに参加しました。

数多くの政府関係者、ドナー、PKOに参加する中国人、そして中国の民間企業の人たち(石油関係、建設関係、通信関係等)が参加する華やかなパーティー。

大統領のかわりにパーティーに出席した南スーダン情報省の大臣は、お祝いのスピーチの中で、「中国は建国してから62年。南スーダンは建国してから2カ月と2週間。中国のことをおじいちゃんと呼んでもいいですか?」と話し、会場の笑いを誘っていました。

中国大使のスピーチの中では、南北和平合意後、中国がいかに南スーダンに貢献してきたか(1,000本以上の井戸の建設、PKOの医療・施設部隊の派遣等)が語られ、中国と南スーダンの良好な関係がアピールされました。

パーティーに参加している中国人の数をみると、南スーダンにどれだけ食い込んでいるかが分かります。ほとんどの方が英語を話さないのですが、それでもビジネスが成り立つということなのでしょう。

私が話をした建設関係の会社の現地代表の方は、10以上の中国の建設会社が現地では工事を受注中で、未だ受注していないけれど現地でのビジネスに関心を示している中国の建設会社は数十とあると話していました。そういえばスーダンの空港で中国の人に「何か建設関係の仕事があれば教えてください」と突然声をかけられたことがあったなぁ。やっぱりバイタリティが違います。

パーティーの後半には美味しい中華料理がふるまわれ、素敵な時間となりました。

2011年9月29日木曜日

貧困の本質は可能性の貧しさを受け入れること

アメリカのスラム街でアトリエを設置し、陶芸を教えることを通して、貧しい人々自身が持つ可能性に気付かせ、彼らが豊かな人生を送る手助けを始めたビル・ストリックランド。
その後、彼は職業訓練所やコンサートホールの建設・運営を通じて、多くの貧しい人々をエンパワーし、彼らを成功へと導いていく…


そのようなビルのストーリーを綴った『あなたには夢がある』。


貧しい人々について書かれていることは、アメリカのスラム街だけではなく南スーダンのような途上国文脈にも当てはまるため、我々開発援助に携わる者に対するインプリケーションが多々ありました。


どのような人にも可能性がある。
ただし、貧しい人達はそのような可能性があることを自らは信じられないような環境に置かれている。
そのため、その可能性に気づくきっかけを得られるような環境を用意する。
その体験を通じて、貧しい人達は初めて「貧しい人」ではなくなり、自らの可能性を信じ、行動していけるようになる…


アトリエ、職業訓練所等での活動をとおして、これらのサイクルを見事につくり上げて行ったビル。


このような「きっかけ」を人に提供するような仕事をこれまでどれだけやってこれたか…ビルの本を読みつつ、自問自答を繰り返す私がいました。


素敵な言葉がたくさん詰まった宝箱のような本。以下に少しだけ紹介します。






「私たちはだれもが、夢をかなえる力を秘めている。その力が発揮できない最大の要因は、その夢は非現実的だ、手が届かない、と自分で思い込むこと、あるいは人から思い込まされることだ」




「芸術は架け橋です。より大きな世界、さらに幅広い経験ができる世界への架け橋なのです。路上で生活していた貧しい少年たちが、よい絵を見たからといって必ず芸術を愛するようになるとは思いませんが、人は芸術に接することで、変われると思います。(中略)うちの生徒たちは、『自分にはできない』と決めつけるのをやめます。そして、生きがいのある生き方とはどんなものなのか、おぼろげにではありますが、わかりはじめるのです」




「実際、自分自身を救うまでは、他人は救えない。自分を知り、自分がどんな生き方をしたいのかわかるまでは、他人を救うことなどできないのだ。」




「私は、自分の経験から、また成功した生徒たちや尊敬するたくさんの成功者たちを見て、本物の成功を収めるもっとも確実な道は、心や精神にとって大事なものを知性と責任をもって追求することだと確信している。」




「砂時計の砂は、いつも同じように流れる。他人の成功の定義に従って、貴重な時間を無駄にするのはやめてほしい。今の望みにしたがって生きてほしい。あなたを元気にするもの、悩ませるもの、生きているともっとも実感できるものを見つけよう。そしてそうしたものがあなたの将来を形づくると信じよう。そうすればあなたは、心から望んだことを、きっとかなえることができる。」




「失敗への恐怖は夢の妨げとなる。しかし、失敗を恐れていてはとびきりの人生は送れない。その恐怖に打ち勝つには、自分の情熱を信じることだ。情熱は、失敗を防ぐことはできないが、情熱があれば、何度失敗しても夢が消えることはない。人は失敗することで学ぶ。失敗することで、人はビジョンを立て直し、やり方を考え直し、夢の実現に必要なスキルや能力の向上を図る。」




「貧困とは、無秩序な思考だ。貧困とは、人生のもっとも深いところにある可能性とのつながりを失うことだ。マンチェスター・ビッドウェイルでは、生徒がそうしたつながりをふたたび取り戻す手助けをしようとしている。壊れた人生を修復するために、豊かで意味のあることに夢中にさせ、彼らのほんとうの潜在能力に気づかせようとしているのだ。」




「どのセンターにも、私たちのスクールの次のような基本理念を行きわたらせる。『どんな環境に生まれても、人はだれもがすばらしい力を秘めて生まれてくる。生徒を健全な環境に置き、心の栄養となるような刺激的、創造的体験をさせることで、生徒はその秘めた力を開花させる』」




「世の中には、『ほしいもの』がわかっている人はたくさんいる。でもそれをストーリーとは言わない。あなたが『なりたいもの』がわかっていることを人に示せるものがストーリーなのだ。あなたが自信を持って真摯に、そんなストーリーを語れるなら、いずれはそれを聞くのにふさわしい相手をつかまえ、とびきりの時間と本物の成功を手に入れることができるはずだ。」

2011年9月17日土曜日

現地の人々の視点から

南スーダンを長年研究されている文化人類学者の方からお話をお伺いする機会がありました。


そのとき、今まで南スーダンに滞在してずっと疑問に思っていたことを聞いてみました。
「現地の人にとって『国(=南スーダン共和国)』とはどのようなものなのでしょうか。」


K先生の研究されている南スーダンのパリ人の使うパリ語には、そもそも『国』という言葉がないとのこと。また、内戦を契機に難民として国境を越えて''外国人''になることによって初めて『国』というものを意識した南スーダン人が多いのではないか(内戦前には''スーダン人''という意識もなかった)というお話でした。


一方、パリ語の中には『政府』という言葉はあり、政府=軍という意味で使われているそうです。


パリ人にとって、国ができるということは(主権を持つ、条約を独自に結べるようになる、大使館を設立する等いろいろあるものの)「アラブがいなくなる」ということとほとんど同義なのではないか―という解説には、大変納得させられました。


その他にも、パリ人の住むパチディ村では住民投票の際約2000人の有権者全員が(南スーダンの)独立に投票したというエピソードや、勤勉が得にならず嫉妬の対象になるというお話、また、内戦が終了した現在でも軍隊による村人のリクルートは続いており、仕事のない村人にとっては「兵隊になる=出稼ぎに行く」という感覚なのだというお話等々は大変興味深く、2年以上南スーダンに滞在する中で私自身が感じていたことに通じることも多く共感の連続でした。


以前読んだK先生の著書『民族紛争を生きる人びと』からは、私にとって長い間疑問だった南スーダンの内戦の在り方(多くの南スーダン人が内戦中に北部スーダン(''敵陣'')に''避難''していたという事実をどう解釈するか)について、新しい視座を与えてもらい、読んだ後霧がパーっと晴れるような気分になりました。この本は南スーダンに関わる人(特に現地で活動する人)にはお薦めの一冊です。


いつか私も南スーダンの農村に滞在して、現地の人々の視点からこの国を眺めてみたいと思う今日このごろです。


左:西エクアトリア州のバラク

2011年9月4日日曜日

パイナップル・シティ



出張で西エクアトリア州の州都ヤンビオを訪問。

南スーダンの中でも最も南西にある州で、コンゴ民や中央アフリカと接する。
ジュバ近郊と比べると緑が濃く、空気中の湿気も多い。

州のシンボルマークはパイナップル。甘くておいしいパイナップルの産地として有名。

南スーダンの独立前までは農村部で散発的に神の抵抗軍(LRA)が出現し、略奪等を行っていたようだが、最近はウガンダ軍の協力も得て、南スーダン政府軍と警察が治安維持に努め、一定の成果をあげているとのこと。

たまたま宿が一緒だった国連のインターナショナルスタッフが、「数日前、日没後に農村部で車がスタックしてしまい、LRAが現れたらどうしようと気が気でなかったよ。ヤンビオまで無事に戻ってこれてよかった…」と胸をなでおろしていたのが印象的だった。

イギリスが数十年前に投資したアグロ・コンプレックスの残骸が大量にあり、その場にいるとまるで博物館かどこかに迷いこんだような気分になった。昔はコットンの生産等をここで行っていたと言うが想像できない・・・

現州知事は欧米帰りのやり手で州内への投資の呼び込みに熱心なのだとか。

立地と自然条件は悪くないこの州が発展するためには、治安維持・農業復興・道路等の基礎インフラ整備が鍵となるか?!

今回の出張で9州目の州都訪問。石油の産地であるユニティ州だけにはとうとういく機会がなかったなぁ。


州農業省の前(パイナップル畑)

 ヤンビオの夕焼け

2011年8月20日土曜日

我が運命を決めるのは我なり


インビクタスという映画を見た。


1994年にネルソン・マンデラが政権を握った時…

それまで権力を握っていた白人たちは、自分たちの生活が今後どのように変わっていくのか不安を持っていた。

一方、黒人たちはやっと自分たちの時代が来たと考え、これまで自分たちを抑圧してきた白人たちや彼らの文化を表舞台から退けようとしていた。


そのような中で、マンデラは両者のかけ橋になろうと試みる。


「和解」は自分のまわりから始めるのだということで、自分の仲間を抑圧し殺したであろう前政権の白人ボディガードを継続して雇用することを決める。

また、南アフリカの中では白人からだけ愛されていたラグビーのチーム スプリングボクスを「南アフリカのチーム」として再度位置付け、白人と黒人が混在するこのチームを盛り上げていくことで、ラグビーを通じて「ひとつの南アフリカ」を愛する心が国民の間ではぐくまれるよう仕掛ける。


舞台は1995年のラグビーのワールドカップ…開催地は南アフリカ。

負けてばかりだった南アフリカチームは、大統領と国民の期待に応えて奇跡的に試合を勝ち進み、強豪ニュージーランドと決勝戦を闘うことになる。

マンデラは南アフリカチームの主将フランソワを勇気付けるために、ワールドカップ開催の前日に、これまで自分の人生を支えてきたひとつの詩を贈る。


その詩が「インビクタス(負けざる者たち)」。


Out of the night that covers me,

Black as the Pit from pole to pole,

I thank whatever gods may be

For my unconquerable soul.

In the fell clutch of circumstance

I have not winced nor cried aloud.

Under the bludgeonings of chance

My head is bloody, but unbowed.

Beyond this place of wrath and tears

Looms but the Horror of the shade,

And yet the menace of the years

Finds, and shall find, me unafraid.

It matters not how strait the gate,

How charged with punishments the scroll.

I am the master of my fate:

I am the captain of my soul.


そして、フランソワは試合の前にマンデラの人生に思いを馳せる。

寝転ぶのがやっとの狭い独房に30年近く閉じ込められたマンデラ。

石を砕き続ける日々の中でも自分を失わなかったマンデラ。

そして今、白人だけの国でなく、黒人だけの国でもない、「ひとつの南アフリカ」を建国しようと闘っているマンデラ…


この思いがキャプテンを動かし、チームを動かし、そして、国民を動かしていく…


実話に基づいた熱い物語。


南アフリカの人たちの新しい国への熱狂が、南スーダンの人々の姿と重なった。

2011年8月6日土曜日

緩急自在

◎ハルツーム空港で見た朝日



南スーダンに来て、筑紫哲也さんの本を数冊読みました。

以前、綺麗な美容師さんが「筑紫さんって、相手の話をきちんと聞いてくれそうな気がして、好感が持てるのよね」と話していたのを覚えていますが、この通り筑紫さんの人気は幅広い。

筑紫さんが今も生きていて、東北の地震・津波・原発のことを見られたら、そして、その後の日本の政治や原発をめぐる様々な言論に触れられていたら、一体何を思い、どのような発言をされていたのだろうと思うことがあります。

週末を使って日本全国を訪問し、それぞれの土地のよさを見つけ、愛した方だからこそ、東北の現状にはきっと誰よりも心を痛められたことでしょう…

ひとりひとりが考えて行動をすること、そして、社会がそのような個人を受け入れるキャパを持つことの大切さを繰り返し説かれていた筑紫さん。

今の日本は果たしてその方向に進んでいるのでしょうか。





「大事なのは、私たちがどういう生き方を選択しようとするか、この地球のなかで生き続けるためにどこに価値を認めるかなのである」『スローライフ』より


「だが、それにも増して大切なのは、従来型・多数派の思考に身を委ねるのではなく、自分で考え、行動する個人がどこまで育ち、力を持ち、多様性のある社会を作れるかだと私は思う。」『スローライフ』より


「『論』も愉し 
近ごろ『論』が浅くなっていると思いませんか。
その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。
そうやってひとつの『論』の専制が起きる時、失われるのは自由の気風。
そうならないために、もっと『論』を愉しみませんか。」『この「くに」の面影』より

2011年7月31日日曜日

地方へ延びる道


南スーダンの首都ジュバから地方に延びる道路の中で、初めてアスファルト舗装されたもの。
車で通って感動しました。

道路は発展の鍵だということを、ここでは本当に実感しています。

道路がなければ病院に緊急輸送することもできず、
道路がなければ学校にもアクセスできず、
道路がなければ農産物をマーケットに卸すこともできず、
道路がなければ治安維持を迅速に行うこともできず…

道路はすべてのもののはじまりです。

''connected''(つなげられること)が様々な可能性を広げていく…

もちろん、道路ができることによって、都市の文化が農村にも押し寄せ、その結果、その土地固有の文化や習慣が失われてしまうこともありますので、一概にそのプラスの面だけを強調することはできませんが、それでも、妊産婦死亡率が世界で最も高く、女子が小学校を卒業する確率よりも子供を産んで亡くなる確率の方が高いという現実に直面すれば、''connected''の必要性は明らかでしょう。

2011年7月30日土曜日

お金がすべてを解決するか?! (2)

◎農作業を終えて帰路につく女性


以前「お金がすべてを解決するか?!」というブログを書きましたが、それから数カ月がたち、その間にも南スーダンではCash Transfer(現金給付)の議論は進み、南スーダン開発計画(2011-2013)のソーシャルセクターの優先課題にもCash Transferが挙げられ、今後南スーダン全土で壮大な実験が開始される予定です。

この試みの前提となる問題意識としては(以前も少し書きましたが)以下のようなものが挙げられます。

①政府による統治が地方部には行き渡っていないため、政府がCash Transferを行うことを通じて、政府による統治・サービスが末端まで機能するということを示し、政府に対する信頼を構築する。=政府への信頼醸成/紛争の再発予防の必要性

②Cash Transferによって人々の購買力をあげ、選択の自由を増やし、地方経済の活性化を目指す。=経済の活性化の必要性

現金は南スーダン政府が用意して、その技術的なサポートを国連が提供する予定です。


一方で、基本的な社会サービスを提供するシステムが整っていない南スーダンでは、現金を受け取ってもその現金で買えるものが限られている…

そもそも教育も医療もアクセスがなければ現金を持っていても意味がない…ということで、この試みの効果についてはもう少し丁寧に見て行く必要があるのも確かです。


ただ、誤解を恐れずに極端なことを言ってしまえば、多くの石油収入が汚職で消えていくとすれば、その分をCash Transferで現地の人々に分配するのは、ベストではないかもしれませんが、ベターな選択肢の一つではあるのかもしれません。(もちろん、Cash Transfer自体が汚職を生む可能性も十分にありますので、そのシステムづくりには細心の注意が必要なことは言うまでもないですが…)


ある西洋のドナーは、もう少し複合的なアプローチをとって、食糧の安全保障と女子教育とCash Transferを組み合わせてモデルプロジェクトをつくり、南スーダンの東エクアトリアで試してみるそうです。(農業訓練を人々に提供し、彼らが現金収入を得られるようになるような仕組み作りをしながら、女子教育を奨励する。そして、女子が学校の授業に出席していることが確認できた場合には、その家族にCash Transferを定期的に行う…といったイメージ。)

南スーダンと似たような事例(政府の土台がないところに一から国をつくるという事例)がほとんどない中で、「仮説」をたてることは本当に困難です。国土も広いため、「効果」を生むようなことを始めようとすると大規模な投入が必要。ただし失敗した場合は、そのコストも膨大・・・

でもやはり、後からは何とでも言えるもの。未だ未だ先が見えない中で、どう先を見据えてどのような一手を打つか・・・このプロセスの真っ只中に南スーダン政府の人達も開発パートナー達もいます。

南スーダンのある国際機関のトップの方が、「リスクがあるのはわかっている。でもリスクをとらないとここでは何もできない」と熱弁されていました。これだけ大きな組織で、世界中で様々なTry&errorを繰り返している機関のトップでもそうなのだから、多かれ少なかれみんながそのような状況の中でもがいているのでしょう。

2011年7月22日金曜日

普通の暮らし

先月遊びに行った南スーダン人のお宅では、小さい敷地の中に2つの家族14人が住んでいた。
更にはいろんな人がたくさん出入りしていて、その度に紹介されて、誰が誰だかさっぱりわからなくなった。

子供たちはやっぱりTVで放映されるアメリカ映画に夢中。
そして、女性たちはキッチンの周りでお茶を飲みながらおしゃべり。
男性陣は庭で晩酌。

日本も南スーダンも家庭の中の風景はあまり変わらないなぁと実感。

子供たちもみんないい顔してたなぁ。
70代のお母さんも凛としていた。

これが南スーダン人がほしがっているいわゆる「普通の暮らし」というものなのかもなと直感的に思った。

それにしてもモロヘイヤ、ゴマ、オクラの入ったローカルの食事はどれもとても美味しかった。

あと、お土産で持っていったクッキーとジュースを(大人に言われなくても)小学生以下の子供たちがみーんなでちゃんと平等に分け合っているところを見て、なんだか感心してしまった。

招待してくれた人が、「グネ(※5人兄弟の末娘)を日本に送って、育ててもらうから。日本は教育もインフラも整っているからね」とジョイ(※5人兄弟の長女)に冗談で言ったら、ジョイは目をウルウルさせて「だめ!」と訴えていて、なんだかかわいかった。

南スーダンでは双子が生まれた後に誕生した男子の名前はモガ、女子はグネと名づけると決まっているらしく、このおうちの末娘のグネちゃんのすぐ上にももれなく双子がいる。
全部で5人兄弟。

まだまだ家族としては小さいのだとか。
こういうところでは家が農家でなくてもやっぱり「数は力なり」なのかな。

とても素敵な時間を過ごした週末だった。


南スーダンの食事。オクラやモロヘイヤがたっぷり。
双子ちゃん。

2011年7月20日水曜日

独立記念(2)

街中でお祝いのダンスを披露する人たち。
飾りのスカートや羽が素敵。

2011年7月19日火曜日

独立記念

独立をお祝いする看板が街中に溢れているのでちょっと紹介。

新しい国に乾杯!

新しい国、ようこそ!

南スーダン独立記念日(過去の英雄の写真とともに)

おめでとう!(左から:英雄ジョンギャラン、サルバキール大統領、リエック・マチャール副大統領、ワニ国会議長)

我々は一緒に抑圧され、そして今一緒に自由になった。ついにみんなにとって幸せな独立へ!

2011年7月18日月曜日

The night may be too long; but the day will come for sure.

2011年7月9日、アフリカで54番目の国、南スーダン共和国が無事に誕生しました。

独立記念式典に向けたパレードの練習をたまたま見かけたときには、様々なグループを代表する人達(軍人、警察、教会、子供、州など)が、独立記念Tシャツや、民族衣装、制服に身を包み、国旗を誇らしげに振るの様子から、これまでの闘いがうようやく終わりを迎え、新しいチャプターがはじまるということを実感し、なんだか涙が溢れそうになりました。

独立前夜は目抜き通りに南スーダンの人達と車があふれ、みんな国旗をふったり、クラクションならしたり、道端を走ったり踊ったりして、独立の喜びをかみしめていることが伝わってきました。

独立記念式典には出席できませんでしたが、独立の次の日に開催された南スーダンVSケニアの親善試合(サッカー)を見に行ったとき、その場で「独立」に沸く南スーダンの人たちとその喜びを少しだけ共有することができた気がしています。サッカーの結果は、南スーダンのチームが2点もオウンゴールをしてしまったため負けてしまいましたが、現地の人たちが誇らしげに国旗を振って、国家を歌い…こんなに南スーダンの人々が熱狂して、また、開放的な雰囲気だったことは過去にはなかったので(常に何らかのテンションが街中にはありました)、あぁ本当にこれが彼らが望んでいたことなのだなぁと肌で感じました。

独立についてはいろんなことを言う人達がいますが、南スーダンのひとたちがずっと望んでいたことなので、今後どんなに長くて険しい道のりが待っていようとも、「自分たちで選んだ」ということがやはり大事なのではないでしょうか。

また、南スーダン共和国の将来に係る話になると、極端に楽観的な議論と極端に悲観的な議論との両方をよく聞きます。メディアも然り、政府の高官も然り。でも、楽観と悲観の間で踊らされることなく、数十年後の国の発展に少しでも繋がるようなドットを現地の人たちと一緒に打ち込んでいければ…と開発援助に関わる者としては思います。

我々外部者にできることと言えば、「希望」を持ち続けながら、この新しい国と向き合っていくこと。そして、「希望」を持って行動し続ける南スーダンの人達の背中をおし続けること―これにつきるのでしょう。

南スーダン共和国大統領の独立記念式典でのスピーチ。
“The night may be too long, but the day will come for sure”.(夜は長過ぎるかもしれないけれど、明けない夜はない)
この言葉をラジオでライブで聞いて、彼らの50年以上に渡る闘いに思いを馳せました。

そして、いろんな思惑があったにしても、(「敵陣」に丸腰で乗り込むような格好になるにも関わらず…)スーダンのバシール大統領が独立記念式典に参加し、スピーチの中で南スーダンの「分離」へのお祝いの言葉を述べ、今後南北スーダンは平和に共存・共栄していかなければならないというメッセージを発信したことは、とても大きな意味があったと思います。

独立を祝う3日間が終ったあと、お祝いの言葉を伝えにいくつかの省庁を訪問したところ、「独立は達成できたので、あとは一生懸命働くことしか残っていないよ」と政府の高官たちは話していました…いつまでも浮かれてはいられないようですね。


サッカースタジアムで応援する南スーダンの人たち

2011年6月30日木曜日

帰り道

フィールドからの帰り道。

牛も帰っている途中だったようで、数多くの牛に道を占領されてしまいました。

大きな角を持った牛は車越しに見てもかなり迫力があります。

南部スーダンならではの光景。

2011年6月26日日曜日

4つの罠

『最底辺の10億人』(ポール・コリアー著)をやっと最後まで読み切りました。
なんだか気が滅入る記述が多いので、これまではなかなかページが進まなかったのですが、南部スーダンの独立を控え、新生「南スーダン共和国」の将来を考える上ではヒントになることが多々書かれていたので、この時期に一気に読んでしまいました。

著者は、10億人の豊かな世界(先進国)と50億人の貧困の世界(発展途上国)という従来の分け方を改め、50億人の繁栄する世界または繁栄しつつある世界に住む人たちと10億人の底辺に閉じ込められたままひしめいている人たちという分け方を採ります。

10億人の底辺の人々のうち、70%はアフリカに住みます。また、全部で58カ国がこのカテゴリーに当てはまります。

では、具体的に底辺の10億人はどのような状態にあるのか―

例えば底辺の10億人の平均寿命は50歳(他の開発途上国では67歳)。
5歳になる前の幼児死亡率は14%(他の開発途上国では4%)。
慢性的な栄養失調の症状を示す子どもは36%(他の開発途上国では20%)・・・・

そして、著者はこれらの国々は、次の1つ以上の罠にはまっていると言います。

①紛争の罠
②天然資源の罠
③(天然資源が豊かでない)内陸国であることの罠
④劣悪なガバナンス(統治)の罠

そして、これらの罠から最底辺の10億人の国々が抜け出すためには、従来通りのアプローチを採っていてはだめで、援助・軍事介入・法と憲章・貿易政策の分野でG8が強力なリーダーシップを発揮することが求められていると著者は結論付けます。


さて、来月頭に誕生する「南スーダン共和国」。
南スーダン共和国では石油がとれますので、このうち、③以外の①②④が当てはまり、南スーダン共和国に住む人々も洩れなく最底辺の10億人にカテゴライズされています。
だいたいこれを聞くだけで不愉快ですし、このように烙印を押すこと自体がその世界の中でよりよい国づくりを目指して格闘し続けている人たちに対して大変失礼だとも思いますが、定量的な研究はあくまでも一つの見方(世界の読み解き方)を提示してくれるだけで、この先の国の行く末を予言できるわけではありません。
そのため、南スーダン共和国の人たちと開発パートナー(ドナー、国際機関及びNGO)は、最底辺の10億人の国々のこれまでの傾向と経験から学べることの中から南スーダン共和国の文脈で有益なものを抽出し、政策に反映させていけばいいだけの話です。

例えば、「失敗国家からの方向転換を達成するためには、国は大量の教育ある人たちに助けられなければならない」(※失敗国家:ガバナンスと経済政策で最低ライン以下にある低所得国のこと。著者の定義によれば、底辺の10億人の国の国民のうち四分の三以上が失敗国家に生きていることになる)と書かれていますが、これについては南部スーダン政府も十分に認識し、政策の一つとして採用し、海外に住む教育水準の高いディアスポラ(内戦中に海外に避難した南部スーダン人)を南部スーダンに呼び込もうとしています。これはもしかしたら、著者の研究等が現実の世界で適用された結果なのかもしれません。

また、南スーダン共和国のように「紛争後」の国であるということはメリットもあると書かれています。
「改革が内戦の後ほど起こりうるという一見奇妙に見える結果があるが、これは決して奇妙なことではない。普通は紛争後の国は恐るべきガバナンスと政策で始まるが、最初の10年間に重要な改善が見られるものである。古い利害関係が刷新されるため、政治はいつになく流動的となり、比較的変化させやすくなるのである」とのこと。ただし、「改革路線の維持が困難」なため、それを維持させるための技術協力(アドバイザーの派遣等の援助)が有効だと著者は説明しています。

また、著者は「内戦中の残虐行為をめぐる相互不信と非難の応酬から、典型的な紛争後の国で、終結後最初の10年間の間に平和を維持できる確率は、五分五分よりも多少良いくらいだ。実際、すべての内戦の半分が、内戦の再発のケースである」と言います。確かに、南北スーダン間の第二次内戦も第一次内戦後約10年経ってから勃発しました。

言いかえれば、これからの10年が新生南スーダン共和国の永続的な平和を構築できるかどうか、そして、これらの罠から抜け出せるかどうかの正念場になるということ。

私たちもそこに寄りそえるような開発パートナーでありたいものです。



◎北部スーダンと南部スーダンとの国境が一時的に閉められた結果、ディーゼルが南部スーダン中で不足。ガソリンスタンドの前で供給を待つ人達。内陸国となる南スーダン共和国の脆弱性が一気に露呈しました(2011年6月)

2011年6月25日土曜日

カフェ

建設中の建物の1階が即席カフェに。

南部スーダンの人たちは空間の使い方の天才だと思う。

二階部分の工事が進んでとりあえずのスペースが確保できたのを先日見たけれど、そしたらそこもすぐにカフェ化してた。

ジュバの街中は突っ込みどころ満載の風景がたくさん転がっている。

だけど、日本も外国人から見たらそんな風景が満載なんだろうなぁ~

2011年6月15日水曜日

学校給食


南部スーダン政府教育省の課長とUNICEFの職員と3人で話していた時のこと。

「南部スーダンで全寮制の大学や教員養成校の運営が止まっているのは、多くの場合食事を提供できないため。これらの運営を開始するためには、食糧を支援してくれるドナーを見つける必要がある。」と教育省課長。

「でも、教育省にも学校にもお金がないのだから、そもそも教育省や学校が生徒に3食提供するというところから考え直した方がいいのでは?」と私。日本では大学が生徒に3食提供するなんて考えられないので、日本の常識でコメントしてみた。

するとUNICEFのベテラン職員。「全寮制の大学や教員養成校が生徒に3度の食事を提供するのは、アフリカでは常識。南部スーダンに限った話ではない。食事が提供されなければ、生徒はお腹がすいて授業に出席し続けることができなくなるため、食事の提供は教育省や学校の責任。」と言い切る。

なるほど…日本の常識はアフリカの非常識というわけか…

アフリカでは食べられることが学べることに直結している―このことを改めて実感したやり取りだった。




食事を用意する南部スーダンの女性の姿

2011年6月12日日曜日

We are the World

お気に入りのバー@ジュバ


週末に一人で遅いランチを食べながらビールを飲んでいたら、テレビからWe are the Worldの映像と音楽が流れてきた。

この曲は、15年以上前に英語の授業で紹介されて、覚えた歌。
その時は歌詞の内容もよく理解しないままいつも口ずさんでいたけれど、改めて南部スーダンのジュバで聞くとなんだか心にずっしりきて、かつ、とても懐かしい…

でも、1985年にアフリカの飢餓と貧困の解決を目指してつくられたキャンペーンソングが、今でも色あせずに人々の心を捉え続けるというのはとても皮肉なことだなぁ。

サビのところの歌詞が、Let's start giving ではなく、Let's start sharingだったらもっと素敵なのだけれど。




There comes a time when we heed a certain call when the world must come together as one

There are people dying and it's time to lend a hand to life, the greatest gift of all

We can't go on pretending day by day that someone, somewhere will soon make a change

We are all a part of god's great big family and the truth, you know, love is all we need


We are the world

We are the children

We are the ones who make a brighter day so let's start giving

There's a choice we're making

We're saving our own lives

It's true we'll make a better day

Just you and me


Send them your heart so they'll know that someone cares and their lives will be stronger and free

As god has shown us by turning stones bread so we all must lend a helping hand

When you're down and out, there seems no hope at all

But if you just believe there's no way we can fall

Let us realize that a change can only come when we stand together as one


We are the world

We are the children

We are the ones who make a brighter day

so let's start giving

There's a choice we're making

We're saving our own lives

It's true we'll make a better day

Just you and me

2011年6月9日木曜日

Road is Life


車で片道4.5時間かかるところに日帰りで出張でした。

最近、ジュバから他の村や町に行く道がかなり整備されてきたため(といってもコンクリートの道路ではないのですが…)、そのイメージで出張にでかけたら、体験したことがないぐらいの悪路で驚きました。

いくつもの川の中も車で進みますし、道路の高低差もかなりあるため、常に車の中で飛び跳ねているような状況…
9時間の車の旅を終えた後には、本当にくたくたになり、次の日は全身打撲したかのようにからだが痛くなりました。

やっぱり道路の整備は大切。

今回訪問したカジョケジという町は、かなり農業がさかんなのですが、都市部へアクセスのいい道路がないため、余剰農産物を売ることができないとのこと。きっといい道路ができれば、カジョケジの人達のビジネスチャンスは一気に広がることでしょう。

ちなみに、途中で川に流された車を発見。

運転手に、「もし今よりも川の水位が上がって、川を車で渡ることができなかったらどうするの?」と聞いたところ、水位が下がるまで待つしかないとのこと。

なんだかのんびりした話ではありますが、雨期が本格化する前でよかったなぁ…

2011年6月5日日曜日

国々の生き方

南部スーダンのジュバの道路は、援助機関のランドクルーザーで溢れている。
他の途上国から来た人達もこの状況にはやっぱり驚くのだとか。
国連の車はそこら中走っているし、その他にも各国のドナーや国際NGOの車がたくさん。

もちろん、援助関係者が集まる会合も毎週のようにどこかで開かれている。

現場で2年近く様々なドナーや国際機関、NGOの仕事の仕方を見ているといろんな特徴が見えてくる。

やっぱり米国は市民社会や民間を強く育てるような支援を好む。だから、政府を迂回する支援が多い。そして、ドナーの間では支援額も存在感も圧倒的。

一方、ヨーロッパはチームプレー。EUとして、お金も出すし、口も出す。特に、南部スーダン政府に対する政策面での支援を提供するために数多くのコンサルタントを政府に送りこんでいる。南部スーダンでは、Joint Donor Officeというのをつくってオフィスまで共同。

でもその中でドイツは異質。協力分野を絞って、日本の技術協力に近いことを地道にやっていたりする。

国連は、面的展開に強い。各州にプレゼンスがあるし、インフラから政府の能力強化まで手広く支援を行っている。

そして、国際NGOはコミュニティレベルで政府の役割を一部担っていたりする。例えば、学校や病院の建設と運営。でも、今南部スーダン政府はそれを面白くないと思っているので、現場の人々のニーズと政府の方針(社会サービスは政府のシステムを通して提供されるべき!というもの)との間で国際NGOは板挟みになっていたりする。

日本にいるときには各援助機関の特徴を頭でわかったつもりになっていたけれど、援助合戦の現場で目で見て肌で感じてそれが本当にわかってきたなぁと思う今日この頃。

この中で日本はどう生きていくか―――。

2011年7月9日に南スーダン共和国が誕生したら、もっともっといろんな援助機関の4WDが増えるのかな。


ジュバ市内の看板「南スーダンはやっと自由になれた!!」

2011年5月29日日曜日

アフリカの真珠にて

白ナイルの源流



「アフリカの真珠」と言われるウガンダに出張に行ってました。

エンテベの空港はビクトリア湖に面していて、山と湖に囲まれた風景にはとても癒されました。
南部スーダンと比較して、道路や電力などのインフラも整備されており、また、建物も多く、なんだかキョロキョロしっぱなしでした。
気候も汗をかかない程度の暑さで、一年中こんな気候だというのは羨ましい限りです。


さて、出張中に聞いた興味深い話があります。

ある日系企業の若手数名が私費で休暇を使ってウガンダに農業機械の販売の可能性を模索しにやってきたとのこと。

この企業の東アフリカ代表の方に去年お話を伺う機会がありましたが、「これからのアフリカでのビジネスは、単に外から物を持ってきて売るというのではだめで、現地の人たちのニーズにあった商品を開発してそれを売るということが必要だと感じている」と熱く語っていらっしゃったのが印象に残っています。

きっとこういった熱い思いと現地での地道な情報収集がwin-winの関係を築くビジネスの基礎になっていくのでしょう。

日本でもBottom of Pyramid (BoP)層を対象としたビジネスの議論が盛んに行われていますが、やっぱりスタート地点は日本の会議室で議論されることではなく、アフリカやアジアの人々の生活そのものですので、それを垣間見に現地まで足を運ぶということは基本的なことですがとても大事なことだと思います。

ウガンダでは今はほとんどの農家が農業機械を使わずにマニュアルで農作業をしているようですが、10年後、20年後にこれが機械化されることで生産性がぐっと上がるだろうと言われています。

小規模農家が農業機械に継続的にアクセスできるためのルートをいかに確保するか…派手なビジネスではありませんが、これらのルートが確保できればアフリカの人たちにはとっても感謝されるビジネスになるでしょう。


南部スーダンの南側はウガンダの経済圏に含まれていると言っても過言ではありませんので、ウガンダでこのようなビジネスモデルが日本企業によって確立されたら、この恩恵を南部スーダンで受けられる日はそう遠くないかもしれない…そういう意味でも今後の成り行きをとても楽しみにしています。

2011年5月28日土曜日

スーダン・東日本大震災 ~光を求め続けて~

ロシナンテス(スーダンと東北で医療活動等を行う本邦NGO)の代表の川原さんが東京で講演会をします。

震災後すぐに東北入りして、医療活動やがれきの撤去作業をロシナンテスのメンバーと継続している川原さん。

前回日本に帰国した際にもお会いしましたが、「いくら寄付したかとか、そういうことももちろん大事だけれど、もっとマクロな視点で、これからの日本をどうしていかないけんかという考えがなきゃいかん。」と疲れた体に鞭を打ちながらも熱弁されている姿がとても印象的でした。

川原さんのお話を伺うといつもいろんな発見があります。

ぜひ6月第一週目の週末に川原さんと一緒に東北と日本の未来について考える時間を持ってみてはいかがでしょうか。

ちなみに、今回の講演会のまとめ役の宮内くん(以下の案内の最後の方にも名前が出てきます)。
スーダンへの航空券が安かったという理由でなんとなく春休みにスーダンに遊びに来て、その後川原さんとロシナンテスと出会い、今ではロシナンテスの強力なサポーターになっています。

人の縁ってとっても不思議だなぁと…

そして、川原さんはそういう「縁」というものもを引き寄せる人だなとも思います。



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ロシナンテス東京講演会
「スーダン・東日本大震災 ~光を求め続けて~」
6月4日(土)13:00~
武田先端知ビル・武田ホール@東京大学浅野キャンパス

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6月4日(土)に、アフリカ・スーダン、及び宮城県名取市・岩沼市で活動する、
NPO法人ロシナンテス代表理事 川原尚行の東京講演会を開催いたします。

外務省の医務官として赴任したスーダン、続く内戦で厳しい生活をしいられる人々を見て、
医師として何かできないかと外務省を退職し、NPO法人ロシナンテスを設立、家族を日本
に残して、スーダンでNGOとして活動を始めました。
その活動は医療にとどまらず、現在では、学校・教育事業、水・衛生事業、交流事業、
スポーツ事業と幅広い分野にわたって総合的に取り組んでいます。

また、本年3月11日の東日本大震災に際し偶然東京に一時帰国していた川原は、
そのまま被災地に向かい、名取市・岩沼市において医療支援活動を開始しました。
医療活動は地元の医療機関に引き継ぎましたが、被災民の依頼もあり、仮設住宅内の
健康管理を行っています。
また、子供たちをの勉強を補助やスポーツ活動などを行う寺小屋事業、そして造園業者と
協同してのガレキ撤去、ドロ除去などの支援活動を行っています。

その精力的な活動は、日本の多くのメディアにも取り上げられてきました。
最近では、日本テレビ「行列のできる法律相談所」や「深イイ話」で、ロシナンテスと
川原尚行の活動が1時間の特集で紹介されました。

今回の東京講演会では、スーダン・東北でのロシナンテスの最近の取り組みや、
川原尚行がスーダン・および東北での暮らしで見つけた、苦境の中の人々の輝きに
焦点をあてて、「スーダン・東日本大震災 ~光を求め続けて~」というテーマ
のもとお話しします。


●時間:6月4日(土)13:00~ (受付 12:30~)
 ※13時には講演会が開始しますので、お時間に余裕を持って会場へお越し下さい。

●会場:武田先端知ビル・武田ホール(東京大学浅野キャンパス)
東京メトロ千代田線 根津駅下車(1番出口)徒歩5分
東京メトロ南北線 東大前駅下車(1番出口)徒歩10分
http://www.vdec.u-tokyo.ac.jp/Guide/access.html

●参加費:無料

●定員:339名

●プログラム
12:30 受付開始
13:00 開会
13:05 講演:「スーダン・東日本大震災 ~光を求め続けて~」
14:30 閉会


【プロフィール】

■川原尚行(NPO法人ロシナンテス・代表理事)
1965年福岡県北九州市に生まれる。
高校、大学時代はラグビーに没頭し、主将を務める。
医学の道を志し、九州大学医学部へ進学。
1998年外務省入省、在タンザニア日本国大使館医務官として赴任。
2002年在スーダン日本国大使館へ医務官として赴任し
スーダンの現状を目の当たりにする。
2005年1月外務省退職を決意し、同年4月よりスーダンにて医療活動を開始。
2007年にはスーダン ガダーレフ州シェリフ・ハサバッラ村に診療所を開設。
2010年3月より、宮城県名取市・岩沼市にて、医療支援・瓦礫撤去作業を開始。
現在はスーダンと宮城県を往復し、両地域の復興に向けて尽力している。

NPO法人ロシナンテス
http://www.rocinantes.org/


●●●お申し込み●●●
https://ss1.coressl.jp/kokucheese.com/event/entry/11891/
(お申込フォームより送信してください)

*本講演会は事前にお申込が必要となります。
定員になり次第、お申込を締め切らせて頂きますのでお早めにお申込ください。

[お問い合わせ]
東京大学国際交流機構(UT-IRIS) 担当:宮内
y.miyauchi@ut-iris.org
http://ut-iris.org/

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